幼い頃に両親を事故で亡くし、施設で育った自分は、天涯孤独の身だと思っていた。


「あんた、ゾロだろ? おれはサンジ。よろしく」

義務教育を卒業し、無事就職口も見つけ、施設を出て一人暮らしを始めた。そんな矢先の出来事だった。
都内の片隅にひっそりと在る、古びたボロアパート。
ノックされた扉を開けると、見知らぬ男が立っており、にこやかにそう語りかけてきた。
「…?」
応対に出たゾロは、全く知らないその男に対し、眉根を寄せる。
年は自分とそう変わらない印象だ。細身で、柔らかそうな金髪と白い肌が、相手を優男という雰囲気に見せている。
サンジと名乗ったその男は、笑顔で右手を差し出してきが、ゾロはうさんくさげな目で相手を眺めやりつつ、「誰だ」とだけ言葉を発した。
「おれ? あんたのじーさんの友達」
握手を無視された事を気にした風もなく、変わらぬ笑顔を向けたまま、サンジと名乗ったその男は、こう言った。




「……ここに住めっていのうか?」

呆然と呟いたゾロの目前には、まさに「お屋敷」としか言いようのない、大きな日本家屋がそびえ立っていた。
広大な庭は綺麗に手入れされており、遠くにはなまこ壁の土蔵まで見える。
テレビでしか見た事のないような、伝統を感じる重厚な家屋だった。
都内でも、比較的裕福な家庭が並ぶこの地域。しかしこの家の豪奢さと広大さは、周りの家よりもかなり抜きん出ている。
「あんたの住んでたアパートと一応同じ都内だし、ちょっと遠くなるけど、ここからなら職場にだって何とか通えるだろ? 住むのに不都合はないと思うけど」
重そうな門を手慣れた様子で開けたサンジは、そうゾロに話しかけつつ広い庭を進んで行く。門の前に立ち尽くしているわけにも行かず、ゾロはその後をついて歩き出した。

ここに着くまでに、サンジの運転する車内で、色々な話を聞かされた。

天涯孤独だと思っていた自分には、母方の祖父がいた事。
その祖父に、恋人だった父との交際を反対された母は、駆け落ちをして家を出た事。
そして祖父は、つい先日亡くなった事。

「あんたのじーさん、意地張ってあんた達見つけようとしなかったんだけどさ、身体悪くして自分の命が長くない事を悟ったんだろうな。最後の最後で娘がどうしても気になったみたいで、色々調べさせたんだ」
そして、ゾロの母であるその娘が既に亡くなった事や、孫に当たるゾロの存在を知ったのだと言う。
「で、遺産を全部あんたにって遺言残したんだ」
サンジ曰く、ゾロの祖父にも親戚はほとんどおらず、孤独の身だったのだと。
しかし、そんな事を伝えられても、ゾロとしては戸惑うばかりだ。
「遺産って……そんなものいらねぇよ」
祖父とはいえ、会った事もない人間だ。
他人としか言えない、そんな人物から譲り受けるわけにはいかない。
そう思い、サンジに対してきっぱりと断ったのだが。
「相続の放棄は出来るよ。でもじーさんについても、じーさんの住んでた家も、あんたまだ何も知らねェだろ? そうすぐに決めなくてもイイんじゃね?」
車は、祖父の住んでいた家へと向かっていた。
「じーさんの家さあ、あんたが受け取らないと、壊されて別の建物が建つ事になってるんだよな…。あんたが継ぐも継がないも自由だけど、壊される前に、少しだけじーさんの過ごした世界を見てやってくれよ」
全部見て、それから考えてくれ、と。
どこか軽薄そうな笑みばかり浮かべていた男が、真摯な表情を浮かべ語りかけてくる。
真剣な響きを帯びた声でそう言われてしまうと、情に篤いところのあるゾロとしては、どうにも撥ね付け難かった。

朧げにしか覚えていないが、幼い頃の記憶にある母は、優しく明るかった。
そんな過去があるなんて、全く知らなかった。
勿論小さかった自分に、そんな複雑な事情を話すわけがないのだが、何も知らされる事なく父も母もあまりに早く逝ってしまった。

母が育った家、そして祖父が最近まで住んでいた場所。
興味がないわけではない。
───この、サンジという男の言う通り、少しばかりそんな家を見てから相続を放棄するのも、別に遅くはないだろう。

車内の助手席から窓の外を眺めつつ、ゾロはそう考えていた。




そして連れてこられた、この屋敷。
邸内に上がってみると、内部も大変重厚な造りで、視覚から圧倒される。壁にかけられている掛け軸も、漆塗りの柱や欄間も、何もかもが、ゾロの素人目にも価値ある物だろうと推測出来る。

「縁側がな、気持ちいーんだよ。お茶淹れるから来いよ」
まるでこの家の人間のように、ゾロに対して家の内部を案内し、台所に立つサンジ。茶を入れる姿は、何だかとても楽しそうだ。
「じーさんいなくなって、この家暫く誰もいなかったから、こうして茶を振舞うのも久し振りだなー…あ、この菓子おれが作ったんだ」
案内された縁側に座っていたゾロへと、茶と菓子を盆に乗せて運んできたサンジが嬉しげに語りかけつつ、隣に座る。
その菓子は、和風の家には似合わない洋風のクッキーだったが、甘さを控えめに作られていて緑茶との相性はとても良かった。甘いものがそれ程好きでもないゾロだったが、その味は素直に美味いと思えるもので、その感想を口にする。
するとサンジは嬉しそうに笑い、言った。
「じーさんも、その菓子結構好きでさ」
「……しかしどうして年が全然違うおれの祖父とやらと、テメェが友人なんだ?」
その事にずっと違和感を感じていたのだ。話が出たのを良い機会に思い、ゾロは尋ねる。
「まあいろいろあったんだよ。ちっとカッコヨク言えば、孤独な者同士で気が合ったっていうかなー」
何だかよく判らない答えだ。ゾロは首を捻るが。
ただ、その言葉から、サンジももしかして天涯孤独の身なのかもしれない、とゾロは推測した。
自分自身、その点について深く追求されるのは好きではなかった。
両親がいなくて同情を寄せられがちだったが、特に自分が不幸だと思った事はない。
サンジも、もしそうなのだとしたら、その辺りを深く聞こうとするのは、相手にとって気持ち良いものではないだろう。
そう思い、そこでゾロは質問を続ける事は止めたが、すると話が途切れてしまう。
ゾロは黙って茶を飲みながら、相手が話を切り出すのを待っていた。
待っている間に、縁側から目前に広がる庭を眺める。
美しい庭だった。
冬から春へと移り変わるこの季節。穏やかな日光の下、紅梅と白梅が、色は対照的ながらも風景に見事に調和して咲き誇っており、少し遠くには、枝垂れ桜が蕾をつけているのが見える。
花の美しさなどよく判らないと思っていたが、この庭はどこか幻想的で綺麗だと、ゾロにも感じられた。
「…悪くないだろ、この景色。春は一年で一番綺麗だと思うぜ。でも夏も秋も冬も、それぞれ良さがあって…」
庭に目を奪われていたのを察したのだろうか。サンジが隣から語りかけてくる。
彼もこの庭が好きなのだろう、とゾロは察した。

───サンジと祖父も、こうして縁側から、この庭を眺めていたのだろうか。
自分が相続を放棄すれば、ここは壊されると言っていた。
だが、それでも。

「……おれは、お前の言う「じーさん」とやらを全く知らない。知らない人間の物を譲ると言われても、どうにも違和感がある……」
母の結婚を死ぬ間際まで許さなかったという、頑なな人物。
孫である自分の存在を調べて知っていたらしいのに、生きている間に会いに来た事もなかった。
会って、話していたら。こんな違和感を感じずに済んだかもしれない。
サンジのように「じーさん」と呼び、慕う事も出来たのかもしれない。
────だが、もう遅い。

ゾロにとっては「他人」のまま逝った祖父。
先程写真で顔を見せてもらったが、何の感情も湧かなかった。
自分にも母にも、似ているとも思わなかった。
サンジは、頑固そうな目つきが似ていると言って笑っていたけれども。

「まあ、そりゃそうだな」
ゾロが今の心情を素直に吐露すると、サンジはそう言い頷いた。
そして立ち上がると、縁側に面した一つの部屋へと入っていく。一瞬その後を追うべきか迷ったものの、ゾロはそのまま縁側に座っていた。
サンジの入った部屋の中から、押入れか何かをごそごそと漁るような音がする。やがて、桐造りらしい木箱を手に持ったサンジが再び縁側へとやって来た。
「…?」
目の前に置かれたその箱を、開けてみろとサンジに促される。
疑問に思いながらも、括られていた紐を解き蓋を開ける。
すると、箱の中には何やら紙が沢山入っていた。その紙の山の上に、大切そうに懐紙に包まれている物があり、まずゾロはそれを手に取り上げた。
「これは……」
包まれた紙の中から出てきた物。
それは数枚の写真だった。
ゾロの母らしき女性の、色あせた昔の物が数枚。そして一枚は、ゾロ自身を映した物だった。
撮られた覚えは全くない、施設で過ごしている時の風景。
紙の束も手に取り確認する。探偵社に調べさせたらしい、ゾロの生活状態について書かれた書類だった。
いつの間に、とつい口に出して呟いていた。
全く気づかない内に、こんなに細かく調べ上げていたのか。
「お前が施設にいる時は、内緒で施設へ援助金出したりしてたんだ。これは言うなって言われてたんだけど、じーさん死んだし時効だよな」
書類へと目を通しているゾロに、サンジは穏やかに語りかけてくる。
「こんなに気にかけてんのに、何で会いに行かないのかって何度も聞いたんだぜ。でも、娘を捨てた自分には、孫に会う資格はないんだって言うんだよな」
それでも、唯一の孫を気にかけて。
影から援助し、自分の死後は全てを譲り残して。

「……本当、頑固なじーさんだったよ」
「…………」

小さく呟くサンジのその言葉に、何も返せなかった。



庭を、そして家を、ぐるりと見渡す。
祖父はこんな広い所で、家族もなく孤独に過ごしていたのだろうか───そう思いを馳せ、その感情を推し量る。
それでも。
「おれのじーさんとやらは、家族いなくてもテメェっていう友人がいたんだから、そんなに淋しくはなかったよな、きっと」
その事は、素直に良かったと思えて、口にした。
「……でもじーさんは長い間、ずっと独りだったから。本当に淋しくておれを呼んだんだからなァ…」
どこか苦笑するように返す、サンジの言葉の意味がよく判らず、首を傾げる。
そんなゾロへと、切り替えるように明るい笑顔を見せ、サンジは肩へ手を回してきた。
「じーさんから何度も、可愛い孫の話聞かされたよ。定期的に探偵使って調べさせてさ。あんたにとっちゃ気持ちいい話じゃないかもしれないけど……でもその調書を見るじーさんは、いつもとても真剣で、いい事が書いてあると嬉しそうだったよ」
「…………」
肩に触れる腕が、寄りかかるようなサンジの体温が、何故か不快ではなかった。

会いに来てくれれば良かったのに、とサンジの話を聞いてゾロは思う。
しかし、それが出来なかったのだろう。
それだけ祖父は頑固で、そして多分勇気を持てなかった。
そうだ、生前会いに来られても、自分は彼を祖父だと受け入れられなかったかもしれない。…自分に対する、こんな祖父の思いなど、何も知らなかったのだから。

「でさ、ずっとあんたの話聞いてるうちに、おれも「ゾロ」って男が気になってしょーがなくなってさ」

凭れ掛かられたまま、突然言われた事が理解出来ず、ゾロは「あ?」と思わず間の抜けた返事をしてしまった。
そんな様子に、サンジはまた笑う。
「不器用なんだけどさ、どんな時も挫ける事なく前向きに生きてる人間なんだなーって」
ゾロの肩から移動した腕は後頭部に回り、サンジの長い指と掌で頭を撫でられる。
「な、何すんだッ」
予想外なサンジの行動に、ついその腕を振り払ってしまった。
子供のように頭を撫でられるなんて、何年ぶりだろう。
母からもそうされた記憶が微かにあるが、もうそんな感触も覚えてはいない。
驚きと、何故かその行為に対する激しい照れに、頬が熱くなる。多分、自分は今真っ赤になっているのだろう。
「かわいいなー」
はは、とその様子を見てサンジが吹き出す。
「テメェ……」
からかわれたと思い、眦をきつく上げ睨みつけるが、「そんな赤い顔で睨んでも迫力欠けるよなァ」と、サンジには軽くいなされてしまう。
自分と大して年齢に差は無さそうなのに、子供扱いされている気がして、ゾロは内心面白くない。
「…そういやお前幾つなんだよ?」
祖父の事は、このサンジから大分聞く事が出来た。知らなかった為人や自分に対する思い、行動など。

しかし、目の前のサンジについては。
そういえば、「祖父の友人」程度の事しか知らない。

「おれの年? あー、お前と同じぐらいかな」
そんな返事にゾロは眉根を寄せる。
また、軽く躱された気がする。
「……お前、何も話さねェんだな」
「そうかぁ? おれって結構お喋りだと思うけど」
「…そうじゃない。自分の事だけは話さないって意味だ」
「あー……おれが話さないの、嫌?」
そう聞かれると戸惑う。
相手を気にする自分の心。その理由がうまく掴めない。
肩を竦め、返事を返せなかったゾロに対し、サンジも僅かに困ったような笑みを浮かべ言う。
「その内話すよ。今はゾロ、お前も何も決めてないだろ? この家を受け継ぐのか、それとも放棄するのか」
そうだ、サンジの言う通り、まだ決めかねているのは本当だ。


「おれの望みなら教えてやるよ。……テメェと二人で、今後この家に住む事。ただそれだけだ─────…」


そう言い、笑顔を見せるサンジ。
しかしその笑みは、どこか淋しげにも見えるものだった。
何故、そんな表情のひとつひとつが気になるのか。



まだゾロにはその淡い感情を掴む事は出来なかった。


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