「ゾロ! ゾロ、おい!!」


軽く頬を打たれる感覚に、ゾロは目を開いた。
まだぼんやりと霞む視界に映るのは、心配気に眇められた青の瞳。

「…サンジ」
「あ…、ああ」

小さく名前を呼ばれ、サンジは戸惑う。
確かについさっき、ゾロに対して名を名乗ったが────
「…おれ、は…?」
周りを見渡す。そこはゾロの見慣れた、高校の一角にある森の風景だった。
「お前突然倒れたんだよ。原因が判らないから、おれもどうしていいか判らなくて………」
怪我なら治せるんだけど、とか、おれじゃ助けも呼べないし…などと、おろおろしているサンジに、つい笑ってしまう。
「お前、自分で鬼とか言う割にあんまり迫力ねェよな」
笑いを含んだゾロの言葉を、一瞬の間の後に理解したサンジが、目を点にしてゾロを凝視する。

自分が鬼だなんて、今の、この『ゾロ』には一言も言ってはいない。

「お…お前、……おもいっ……」
「重い?」
「ちがっ、思い出したのか!?」
「とりあえず離せ」
サンジに抱きかかえられるように倒れていた姿勢を立て直し、その腕からするりと逃れる。
尚も心配げな様子を見せるサンジに、
「怪我じゃないし、別に病気でもない。単に、…崖から落っこちた時の衝撃とか、痛みとかを思い出しただけだ」
さらっと述べたその言葉。
しかしそれはサンジの疑問を肯定するものだった。
先程の、ゾロに向けられた激情が嘘のように、惚けたまま沈黙しているサンジから、視線を外し呟く。
「夢を見てた。すげぇハッキリした夢だった。───谷の底で、変な鬼に怪我を治してもらってた」
「…変で悪かったな」
「変だ。鬼のくせに、一人でいるのが淋しいって泣きそうな顔してやがった」
その言葉に、サンジのそれまで血の気を感じさせなかった白い容貌が、途端に真っ赤になった。
「な………!」
反論しかけるが、言葉にならず黙り込む。
どこか遠くを眺めるように外されていたゾロの視線が、サンジへと向き直る。
それでも続く沈黙の中で、その視線が何を語りかけているのかサンジには判らず、戸惑いながら口を開いた。

「………お前が悪いんだ」
「そればっかだな、てめェは」

呆れた口調でゾロが言う。だが
「…まあ確かにおれが悪いな。思い出せなかったのは……」
「あの子がいたからだろ…、あの、幼馴染の」
言葉の全てを聞かずとも判った。

(─────くいな……)

「あの子は、お前の許婚の生まれ変わりだから」



前世で婚約し、やがて伴侶となった娘。
生まれてから死ぬまで、その一生の大部分の時を共にした二人。
「今生でまで、そんなに近くに生まれ変わっていると知った時、やはり敵わないのかって……今度もまた、お前を奪う事は出来ないのかと、正直悔しくてどうにかなりそうだった」

転生の際には、人間の記憶は一度白紙に戻る。そして新たな時代に生を受け、新しい人生が始まる。
その運命に逆らい、サンジはゾロが生まれ変わった後、再び自分と出逢った時に過去の全てを思い出すように、ゾロの記憶の奥底に術を施した。
しかしその術は、更に強い封印によって破られた。
恐らくゾロ自身が、己の記憶に無意識にかけた鍵。
それを、サンジはどうしても壊す事が出来なかった。

それでも何とか思い出させられないかと、色々試みた。
出来る範囲で、ゾロの今生での過去の記憶を操作し、幼馴染としての立場を作り上げ、近づき、思い出すきっかけを見出せないかと腐心したのだ。
だけど全ては徒労に終わるかに見えた。

ゾロ自身が架した枷ならば、結局はゾロの意志が伴わなければ外す事は出来ないのだから。



「そんなにあの娘の傍にいたいなら、おれとの約束を…記憶を、拒絶する程大切だというなら……それなら、無かった事にしてやろうと思った。
あの約束も全て忘れて、もうお前の前から姿を消そうと。でも─────」

約束という名の希望に縋りついて生きてきた、あれからの時代。
千年を越える永い年月に渡り抱き続けてきた、身を斬るような想い人への切望を、心から捨て去る無念は計り知れず。
そして何より、今後また一人で、誰にも気づかれず孤独に生きていく絶望感が、サンジの心を打ちのめした。
自分でも制御出来ない、愛惜の情や絶望の思いに振り回されて、湧き上がる暗い衝動は止められなかった。

「……お前をおれのものにしたかった。一度だけでも……」
「あの時の───やっぱ、お前なんだな…」

淡々と聞くゾロの言葉に、小さく頷く。
「悪かったと思う……。その記憶も、消そうと思っていたんだ。だけど…」
自由を奪ってまで強いた、理不尽な暴力。
どんなにかゾロを傷つけるか、判っていた。
この腕の下で、誰かも判らない相手から受ける陵辱に、どんなに恐怖と屈辱を感じていたのかも。全て判っていて。

それでも───────

傷つけても構わない、と思った。
果たされなかった約束の代わりに、ゾロの心に残せるなら、例えそれが大きな傷痕だろうと。
消えない何かを、その存在の中に刻み込めるならば……。

そう思う程に追い詰められた。



だが、精神的に追い詰められ、無理にゾロの心と身体に傷を残しても、哀しいだけだった。
結局、自分は何も手に入れられなかったのだ。
空しくて、哀しくて。自分のした行為にすら悔いを大きく残して。
だからあの後、すんなりと別れの言葉を言えた。心は締め付けられるように痛んだけれど。

「……悪かった」

許してもらうつもりはない。ただ、全てを認め謝罪する事だけが、サンジにとって今伝えられる精一杯の誠意だった。
しかしゾロはその言葉に首を横に振る。
「謝らなくていい。この場合、おれにも非があるって言っただろ」
「非とかいう問題じゃなくて、単にお前があの娘を好きで、大切だっただけだろ……おれとの約束を消し去りたい程に。
どうしようもない事で、それはお前が悪い訳じゃない…」
「違う」
更に強く首を横に振り、サンジの言葉を遮る。
「違うんだ。おれは……お前も、前世のくいなも裏切ってたんだ」
ゾロの言葉の意味が判らず、目線で疑問を訴える。
その目に映るゾロの表情は、どこか自嘲を含んでいるように感じるが、サンジにはそれが何故か判らない。
「ゾロ…?」

「───おれは、あの谷に残りたかったんだ」





遥か遠い過去の記憶。
満開の桜の下に佇む姿は、霞に消えてしまうかのように感じた。


(おれと共に、ここで生きろ)


命令形だった、鬼のその言葉。
だけどその表情は、言葉とは裏腹に酷く儚く寂しげで。
その姿が心に強く刻みついた。

死んでも、忘れられないと思った。



そして、その瞬間から。
許婚の少女への裏切りが始まったのだ。
言葉では、許婚との約束があると言い、サンジを拒絶した。今の自分はその意に添えないと伝えた。
だが、心の奥底で。
このままこの谷に留まり、傍にいられたら、と。
鬼のその言葉に従い、共に生きられたら、と……。

そう、確かにそう思った──────





「笑い種だ。おれは結局あれからずっとお前が気になって…忘れられなくて」

ゾロの自嘲は、声にまで滲む。
前世での許婚の少女との間には、確かな強い絆はあった。
しかし相手への思いは、未だ愛と呼べる物ではなかった。それでも時間をかけていつかは、掛替えのない愛情へと育つのだろうと思っていた。そしてそれは恐らく正しかった。
桜の谷の底で、この鬼に会うまでは。

「あれからの自分は最悪だった…。何かにつけ、あの鬼はどうしているだろうと考えていた。婚姻の儀の時ですら………」

全てを思い出した。
過去の自分が何を考え、何に思いを馳せ、そして誰を想っていたのか────…

「おれは嘘がうまくない。そして女は、感情には鋭い…。誤魔化す事も出来なかった」
心が自分の元には無い事を知っていた伴侶。
それでも、後の人生を何も言わずに添い遂げてくれた。
けれど、恐らくその共にした生活は、彼女の心に傷を増やすばかりだったろう。
生涯を共にすると誓い、その誓約は果たされた。
だけど、最後まで彼女を幸福にしてやる事は出来なかったのだ。
いつしか向けられるようになった視線。淋しげな、孤独に絶望するかのような─────それは同じ色をしていた。
記憶の中の、あの鬼の瞳と。
その視線を知っていて、なのに自分は結局何も出来なかった。
彼女を裏切り続け、不幸にして、それなのに生まれ変わった次の生で自分は想いを果たすつもりなのか。

そんな事が許される筈は無い。

その自責の念が、ゾロ自身の記憶の封印となり、結局はサンジとの約束も裏切る事となった。





「…こういう事だ。おれは、お前との約束を果たす資格を、自分で捨てたんだ」

思い出したけれど、一度は裏切った。
こんなにも、追い詰める程に。
もう、この鬼と共に生きる資格はないのだとゾロは思う。
そう思うだけで、苦しい程に感情が揺れるけれど。

それまで、ゾロの話を黙って聞いていたサンジが、やがて静かに口を開いた。
「…………………か…?」
「あ?」
呟くようなサンジの科白を聞き取れず、問い返す。

「約束果たす”資格”とやらを捨てて、そんでおれまで棄てようってのか…?」
「……サンジ」

俯いていたサンジが、顔を上げる。
ゾロに真っ直ぐ向けられた瞳には、記憶にある不安定な揺らぎは無かった。
強い視線に、知らず気圧される。
「思い出したなら、今のテメェはおれの物だ。違うか? お前の前世の言い訳なんかどうでもいい…!」
叫ぶと同時に、その腕にゾロの身を捕らえる。

「言ったろ? おれにはお前しかいないって…!」

ゾロが小さく呻く程に、きつく抱き締める。
「不幸にした彼女への贖罪のつもりだか何だか知らねェけど、それだって所詮エゴだろうが…。おれもお前を傷つけたけど、だけど…」
サンジの言葉が、矢のように突き刺さる。
「おれまで不幸にする権利は、今のお前には無ェよ」
そのままサンジは、反論を許さないとばかりに強引に唇を重ねてきた。
ゾロは逃れようと足掻くけれど、迷いがあり的確ではないその抵抗を、サンジは容易に抑え込む。


もう遅い。
全て判ったのだから。
過去に於いても現在に於いても、ゾロのその心は自分に有ったのだと。


唇を離し、真っ赤になって荒い息を継ぐゾロを、正面から見据える。
「約束を果たす資格が無いと言うなら、無かった事にしてやる。過去は全部、だ」
「何……」
「前世のテメェはもういい。今の、ここに居るお前が選べ」
吐息が触れる程の距離で。

「おれか、それ以外か。…おれと行くか、ここに留まるかをだ」

おれを選ばないなら拒め、拘束はしないと言い切ったサンジに、咄嗟に言葉を返せなかったゾロは、再び接吻けられる。

すぐに舌を深く絡められて、背に回されていたその手がやがて、衣服の下へと差し入れられ、性急に触れられても。

そのままその場に、桜の根元へと体重をかけられ組み敷かれても。


「……サンジ…」


─────身体の自由を奪われた訳でもないのに。





ゾロは、動く事が出来なかった。





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