「ゾロ…!? おい、どうしたんだよ!?」


突如苦しげに胸を抑え蹲り、次の瞬間意識を失いその場に倒れ伏したゾロの上半身を、サンジは慌てて抱き上げた。
手早くその体温や身体の外傷の有無、内臓の機能状態などを確認するが、特に異常は無いようだった。

「何で……」

あの時────遥か過去の、初めての出逢いの時も、ゾロはこうして目の前に倒れていた。
正確にはゾロの「前世」の姿であり、彼の外見は今とは違っていたが、同一の魂を確かに持つ人間。
血を多量に失い、瀕死の状態で川に倒れていた。
あの時は、倒れていた原因が明瞭であり、失われた意識を目覚めさせるには、傷を治癒し回復させれば良いだけだった。
だが、今回は違う。原因が判らない。
半ば呆然としていたサンジの耳に、微かな声が聞こえた。

「………サン…ジ……」
「!」

小さく、名を呼ぶ声。
驚いてサンジは腕の中のゾロを見つめるが、閉じたままの瞳は開く気配は無い。意識が戻ったわけではないようだった。
うわ言に過ぎないであろう呼びかけ。だけど。

ゾロは覚えてはいないが、その名は「約束」に於いて特別な意味を持つ。

名を呼ばれるのは三度目だった。
今ここで、無意識のうわ言として。先程、「知らない」と言われ名を思わず口にしてしまった直後、激情に駆られた自分を制止する言葉の中でも。
そして───────遥か過去の、誓約の場面で。
約束の、その証として。

「言ったじゃねぇかよ、お前………」

その名に懸けて、と。



未だ意識の戻る様子のないゾロを抱き締める。
あの時もこうして、この腕に抱き、治癒の術を施した。
伝わる温もりを、愛しいと思った。
手放したくないと思った。


今でも記憶に鮮やかに蘇る。








それは、遥か遠い思い出


千年を越す、遥か昔







目の前の人間は、その身体に致命的な外傷を負っていた。
辛うじて保っている命の灯火は、消える寸前だった。

「生きたいか?」
自分のその言葉に、僅かに頷いた瞳は、間も無く死ぬ人間の物とは思えぬ程に強い光を孕んでいて。
その視線に、サンジは惹かれた。
本来人の目に映る筈の無い自分を、見る事が出来る異質な人間への興味以上に。急速に心を囚われるのを感じる。
だから、助けてやる代わりにと、交換条件を出したのだ。

川瀬に倒れていた身を抱き上げ、近くに生える桜の大樹の下へと運ぶ。
桜の近くであればある程、強い「力」を使えるから。
そっと横たえた人間の着物に手をかけ、襟元を肌蹴させると、その下に深い傷を確認出来た。
手を翳し、瞳を閉じる。


傷を塞ぎ、失われた血液を再生させる─────。


この人間を死の淵から引き摺り戻す為の、念。
自分の力でもあり、「桜」の力でもある。
鮮やかに色づいていた多量の桜の花びらが、風も無いのに散り始め、地へと落ちてゆく。
代償は、桜の精気。
散った花弁が色を失っているのとは対照的に、サンジの抱く人間の頬に赤みが差してくる。
鼓動が強くなり、体温が僅かずつ上がっているのを抱いた腕に感じて、サンジは一息ついた。
腕の中の男の意識はまだ戻らない。
それでも、人間にしては、強く暖かい「気」を感じる事が出来た。

(ああ…だからかな)

見える筈のない存在が見えるのも。

「これで平気だろ、もう……なあ、起きろよ」
呟き、頬を撫でる。そのまま、指先を唇へと滑らせ、惹かれるように、ゆっくりとサンジはその唇に接吻けた。

途端、男が小さく身じろぎした。




「う………」
「目が覚めたか?」
意識が戻り、呻いて身動きした人間に声をかける。
「傷は塞いだけどな、身体はまだ衰弱してるだろうからあんまり動かない方がいいぞ」
暫くぼんやりとサンジを見つめていた男が、かけられた言葉にはたと思い出したように己の身体を確認し始める。
僅かな傷痕は残るものの、ほぼ完治している傷に目を見開き驚いているようだ。
「………お前が治したのか?」
「言ったろ? 助けてやるって」
「お前、一体……人間じゃ、ないな?」
身体を起こし、サンジに問いかける。

死に逝く人間の運命を覆す力を持つ、人の入らない山の未踏の地に棲む者。人である筈がないと確信した質問が投げかけられた。

「怖い?」
おれが怖いかと問うサンジの言葉に、数度瞬きし、ゆっくり首を横に振った男に、尚も問う。
「お前ら人間が言うところの、『鬼』だぜ。化け物なんだ。それでも?」
鬼とは生物の精気を奪い、糧とする異形の者だと麓の村では伝えられていた。
「人間を喰うのか?」
あまり恐れている風もなく問われた疑問に、サンジは答えた。
「いや、人間の精気も奪えるけど、おれの糧はコレ」
と、群生する満開の桜の木の一つを指差す。
「知ってるか? 桜って他のどの植物よりも精気が強いんだ。おれはその精気で生きてる」
特にここの谷は、かつて人間に追われた鬼達の隠れ里が存在した場であり、その影響で土地自体が妖力を帯びている。そこに根を下ろす桜の精気も霊力も、他の地のそれよりずっと強い。
「鬼の隠れ里? 村の伝説は本当って事か。お前みたいなのが他にもいるのか?」
「鬼達の里はとうに滅びた。おれは、実を言うと普通の鬼とはまた少し違っていてね」

肉体が滅びても、鬼の妖力は暫く地にとどまり『気』として残る。それが桜の持つ霊力と融合し、結晶となり生まれ出た異形の者。

「本来おれに形状(かたち)は無いんだ。この姿も髪や瞳の色も、かつてここにいた鬼達とおんなじにしてるけど」
意識と妖力だけの、曖昧な存在。
人間達は「精霊」とも呼んでいただろうか。
かつて人間に追われた、実体のある鬼とは違い、妖力を持たない人間の目には映る事も無い。

その筈なのに。

「何でお前には見えるんだろうな。アンタ、鬼の血でも引いてんのかね。または鬼の生まれ変わりとか」
「知るか」
ぶっきらぼうに答えた男を、興味深そうにサンジは見た。
「今度はおれに教えろよ。何でこんなとこに居んの? 普通の人間が簡単に入れる地じゃねーぞ」
「薬草探してたんだよ。病気のヤツ、助けたくて。で、滝に落っこって気づいたらここにいた」
男の答えを聞いたサンジの方が驚いた。
「滝って、この上のか? …お前、ふつーの人間ならその場で死んでるぞ……」
「だから死ぬ所だったろうが。お前に助けてもらわなけりゃ……」


(生きたい?)
あの言葉に頷かなければ、今頃は確実に黄泉の国へと旅立っていた筈。
だが。

(その代わり─────)

その言葉の後、この鬼は何と言った?


「お前、おれを助ける代わりにって、何か言ったよな?」
「ああ、言ったよ」
鬼が頷き、言う。
「おれと共に生きろって」

手放したくないと思った。
欲しいと思ったのだ、この人間を。



かつて、サンジはこの谷で鬼と共に棲んでいた。やがて、生殖能力の低い鬼達は死に絶えたが、自分は精気の元となる桜が滅びない限りは存在し続ける。
永い時を、ただ一人きりで過ごした。
何者とも、言葉を交わす事すらなく。
寂しさなど忘れたと思っていた。だがこうして、自分の存在を認識する者が現れた事で、自らの心の激しい飢えを知ってしまった。

「ここにいろ。ここで、おれと共に生きろ。お前の命も体も、おれだけの為に…」

命令形の口調ながらも、縋るような目をしている事を、サンジ自身は気づいていない。
それを暫くじっと見ていた男が、やがて口を開いた。
「─────それは出来ない」
ぽつりと伝えられた言葉に、サンジが何故と問い返すと。
「許婚がいる。今世では、彼女と未来を共に生きると既に約束した。お前には命を助けてもらったのに、恩知らずな言い草だが……」
先の約束を破るような不義は出来ない、と。

それを聞き暫く黙り込んでいた鬼が、やがて口を開いた。

「…今生での約束があるなら、来世では?」
「は?」
サンジの言葉を理解出来ず、問い返す。
「生まれ変わったら、その人生も全部、おれに寄越せって…おれのものになれって言ってんの」
「……そんな事が出来るのか判らねェよ」

来世などというものが仮にあるとしても、ここで交わした言葉を覚えているとは思えない。
そもそも再び巡り逢う事すら不可能な気がする。そう思い口にしたら。
「出来る。生まれ変わり姿が変わろうと、魂は変わりはしないんだから、魂自体に術をかければいい。おれと逢ったら記憶を取り戻すように……」
「…おれはいつ死ぬかも、いつ何処に生まれ変わるかも判らないんだぞ?」
「判らないけど。───見つけるさ、絶対」

何処に、どんなに遠くに生まれ変わっていても、いつか必ず。
名前が変わろうと、姿が変わろうと、絶対に。
何度も巡る運命の中で、必ず見つけ出してみせる。


「判った。来世のおれはやるよ、お前に」
暫しの沈黙の後、男は言った。
「誓ってやる、今ここで。だから必ず見つけ出せよ」
その言葉に、今までどこか不安げな気配を漂わせていた鬼が、漸く微笑んだ。
「ずっと、ずっと一人でいたんだ。…里が滅んでから、もうどのくらい時が過ぎたのか、覚えてない程永い間」
希望を持っていいんだな、と。
どこか泣き顔にも見える表情で微笑う鬼に、どうしていいか判らず、思わず手を伸ばしていた。
「…お前、名は?」
伸ばした指先が、金の髪に触れる。
「おれは、生まれ変われば名も何もかも変わるだろう。でもそのまま、変わらず生き続けるお前は違う」


変わらないものを誓いの対象に、誓約を結ぼう。
その姿に、その名前に懸けて。

「………サンジ、だ」

触れられた指先に目を細め、鬼が答える。
その言葉を聞いた男は柔らかく笑い、言った。



「お前に、お前のその名に、誓う。「約束」だ、サンジ─────」





鬼が棲むという深い山から、薬草を取り生還し婚約者を救った男を、麓の村人達は賞賛しつつ聞かずにいられなかった。
「あの山で、鬼に遭遇しなかったのか」と。
男が山に入ると言った時、皆は鬼に喰われると止めたが彼は聞かなかった。
山に入った彼はもう二度と帰らないだろうと思っていたのだ。
村人達の疑問に、男は笑って答えた。
「いたぜ。この薬草は、その鬼にもらったんだ」
村人達はその言葉を本気にとる事はなかったが。



その後の一時期、薬草またはその薬草が齎す金銭目当てに、山に踏み込む人間は増えたが、登る困難さは他の山の比ではなく、奥まで立ち入る事が出来る者はいなかった。
遭難者も相次ぎ、それは鬼伝説の恐怖感を人々に改めて広め、やがて山に踏み込む者は誰もいなくなった。









全てを捨てても 傍にいたいと思った

…共にいられたら、と





──────裏切りが始まる







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