「ゾロ……!」

意識を失う寸前のゾロの耳に、必死な声が届く。
低く響く男の声。
この声も、遥か昔どこかで聞いたのだ。確かに。

…どこで?

あれは……。

声のする方向に、意識を向け、そちらへ手を伸ばそうとする。
すると。



「そっちじゃないよ」
ふいに呼び止められた。聞き慣れた高く綺麗な声。

「くいな…?」

ゾロを呼び止めたのは、くいなだった。
幼馴染みの、少女。

「こっち。ゾロ、一緒に帰ろう?」

そう微笑み、ゾロの手を取る。
そっちへ行ってはいけないのだと、無言で少女の瞳が語っている。
「あ………でも」
しかし、ゾロの心には原因の判らない焦燥感が渦巻いていた。
「でも、おれは─────」
何かを、忘れているのだ。
とても大事な事、だと思うのに。

ふいに、風が吹く。
桜の花びらが、視界に舞い踊る。
それは、どこかで見た事のある風景。

誰かと共に。

満開の桜の下で約束を。



「そうだ……」

あの時、交わした約束は、まだ果たされていないのだ。

「くいな、おれは……」
「違うよ」
お前と共には行けない、と言葉にする前に、少女に制された。

「ここはあなたの心の中だもの。私は「くいな」じゃない」

少女の形状が、霞むように消えてゆく。

「この形は、あなた自身が決めた「枷」だよ」




記憶を封じ込めて、どんなに逃れようとしても。
過去も現在も、想いを完全に消すことなど出来ないのだと。




────自分にとって、一番大切な事は何か。


思い出せと、心が警鐘を鳴らし続けている。







夢を見ていた。


夢の中で。
おれは別の名前で呼ばれていたように思う。
それは確かに夢ではあるけれど、はるか遠い過去の、己の記憶なのだという自覚が何故か有った。

遠い昔の、思い出す筈の無い記憶。

住んでいたのは、ある山の麓の小さな村。
緑豊かなその村には、既に今となっては時代劇ですら見ないような、古い時代の着物を纏う村人達が、静かに暮らしていた。
その中の一人の、幼馴染の少女。
共に成長したその少女とおれは、やがて婚姻の約束を交わす事になる。
しかし彼女は、突然の病に伏した。
不治ではないが、正しい治療を施さないと、確実に死に至る病だった。
治すには、ある薬が必要だった。
だが希少な薬草から作るその薬は、あまりに高価で、貴族でもない限り手に入れるのが難しい物だった。
買えないのならば、薬草を探して直に薬を作ればいい。
すぐにそうした結論へと辿りつき、おれは迷いもなく薬草を探す為に村を出た。



その薬草は、人のいない深い山奥の、澄んだ河辺などの水が多い場所に生えているという。
川の上流を目指し、山に分け入る。
麓の村では、鬼が棲むと伝えられている山だった。伝説を恐れ、人々は決してその山に入ろうとはしない。
そうした理由で人が全く通らない山中は、道など勿論無い。
足に纏わりつく草や、行く手を阻む木枝に困難を感じながらも、着実に登り続けた。
大きな樹木が立ち並ぶ薄暗い山中を、一昼夜ほど歩いただろうか。
やがて鳥の鳴き声に混じり、地に響くような低い音が聞こえ始めた。

「滝音……」

歩を進めると、突然視界が開け、山を抉り取るかのように流れる大きな滝が眼下に広がる。
この激しい滝の流れが、山あいの谷を通り、更に山の側面を流れ、やがて麓の村へと辿り着いて穏やかな川となるのだろう。
そこへ。
「……!」
滝壺を見下ろす目に、目的の薬草が映った。
「あんな所に……」
流れ落ちる滝水の側面。ほぼ垂直に切り立った崖の中腹辺りに、その薬草は生えていた。
無意識に舌打ちしていた。何もあんな取りにくい所に…とは思ったが、だからといってここで諦め、他の安全な場所に生えているのを見つけるまで探す悠長な性格はしていない。
見つかる事自体が奇跡のような薬草なのだし、何より時間が無かった。
死の淵で、必死に耐えているだろう婚約者の為にも。

足場を探して、なるべく慎重に崖を降り始める。
上から見ただけでも、滝壷の深さは相当なものだと計れたからだ。滝の高さもかなり有り、流水の勢いも強い。
万が一落ちたら、浮かんでこれないかもしれない。
崖くだりなどの経験はなかったが、それでもうまい具合に足場を探り、何とか薬草の近くまで降りる事が出来た。
僅かな岩や枝や木の根を手がかりに、切り立った崖を下る動作はかなりの筋力を使うが、力はそれなりに自信もあった。
目当ての薬草は、もう目前だった。

「もう少し………」

頭の片隅に、黒髪の少女の姿が浮かぶ。
恩人の一人娘で、親友のように気心のしれた、今は許婚という存在。

許婚として、女として、彼女を愛しているのかと問われれば、実を言うとはっきりと頷く事は出来ない。けれど、誰よりも強い絆があると思う。
大切な存在である事に、変わりはなかった。

伸ばした指先に、薬草が触れる。

「!」

突如、足場にしていた岩が崩れた。いや、岩が崩れたのではなく、それを支える周りの地盤が思いの他脆かったらしい。
手に触れた望む物に安堵し、僅かに緊張感が切れたのだろうか、と滝壷に落ちるまでの瞬間に後悔しても遅かった。
水面に叩き付けられる衝撃。それも一瞬の事だった。
激しく水が落ちる滝壷に巻き込まれ、意識も暗黒へと呑み込まれた。





水音。
そして、さわさわと響く騒めき。
聞き慣れたそれは、木立ちが風に揺れる音だろうとぼんやり思う。


一時的に失われていた五感が、少しずつ戻る。
僅かに圧迫感を感じ、温かい何かが身体を撫でて行く。
これは恐らく、流れる水の感触。
「う………」
ほんの少し身動きすると、途端に全身に激痛が走った。
重い瞼を何とか開く。自分の状態を確かめる為に。
霞む視界で、自分の身体が川の浅瀬に横たわり、下半身を流れに浸している事を確認する。
真っ赤な血が、清流へと流れ出ていた。
それを彩るように、ひらひらと緋色の花弁が周りに落ちてくる。
川沿いには、かつて見た事が無い程の大量の桜が満開に花開いており、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
この身体の痛みが無ければ、ここがいわゆる「あの世」かと思うくらいだ。

重く混乱した思考を何とか巡らし、自分が滝壷へと落ちた事を思い出す。
情けねぇなと自嘲気味に考えるが、滝壷の底へと沈まずにどうやら谷の方へと流れ着き、とりあえず命が助かっているだけでも運がいいのかもしれない。
が、この出血量じゃあ所詮は時間の問題のようだ。
ここへと辿り着くまでの激しい流れの中で、岩やら何やらに叩き付けられ、肉を抉り取られ血は大量に失われている。
特に胸の辺りに広がる傷は深く、このまま放っておけば、これが致命傷となりそうだった。

薬草を持って帰ると、約束したのにな─────

「約束」を破るのは何よりも嫌いだ。
だが、もう指一本動かない。
まだ若干肌寒い春先の、冷たい水の感触を温かいと感じたのは、多分出血によって体温が極端に下がっているせいだろう。
ごめんな、と、自分を信じて待っているだろう相手に心で謝り、一度開いた瞼を再び閉じる。




その時。


「人間…? こんな所に、何で」


不思議そうに呟く声が聞こえた。

死の間際の幻聴かと思った。
だってそうだろう、ここは人の入る筈の無い「鬼の棲む山」の奥に位置する、深い谷底だ。
人間がいる筈が無い。人が来れるような場所ではないのだ。
だけれど。
「死んでるのかな……」
今度ははっきりとそう聞き取れた。幻聴なんかじゃなかった。
閉じた目をもう一度開ける。そんな動作にすら、渾身の集中力が必要だった。

霞み揺れる視界に、何者かの姿が映る。
村では見た事もない黄金色に輝く髪の、人間。
…いや、本当に人間なのだろうか。

「……………れ、だ……?」
視線を向け、お前は誰だと問うつもりだった声は、掠れた呻きにしかならなかった。
しかし、その声に驚いたように相手が自分を凝視してきた。
「お前………」
その後は、おれが見えるのかと言ったような気がしたが、聴覚をはじめ全ての感覚が麻痺し始めていて、はっきりとは判断出来ない。
「ほんと、辛うじて生きてるって感じだな」
「すげー傷、もうちょっとほっといたら死ぬぞお前」
辛うじて耳が拾う声は、どこか嬉しそうな響きを感じる。気のせいかもしれないが、その事に何だか腹が立った。
お前が何者だか知らないが、瀕死の人間を前にして、何べらべら喋ってやがる…。
死ぬなんて、本人が一番判ってるんだ。わざわざ言われなくても。
なのに。

「助けてやろうか?」

かけられた言葉に驚いた。
戯れ事を、と口に出して怒鳴りたいが、もうそんな力も残ってはいなかった。
男が音も無く近づき、おれの目の前に屈み込む。

「なあ、死にたい訳じゃないんだろ?」

目を覗き込まれる。
視界は光を失いかけ、薄暗くなってきていたが、相手の顔は何とか判断出来た。
ふざけているような表情には見えなかった。

「生きたいか?」

その問いに、病と闘っている許婚の少女を思い出した。
薬草を探し出して戻ると、約束したのだ。
約束を守りたかった。救ってやりたかった。
だから、最後の力を振り絞り、男の問いに頷いた。
お前が何者だろうと、この状態から運命を覆せるというのなら、命を預けてもいい……、と。



「……判った。必ず助けてやるから、その代わり────」

気力を振り絞り何とか保たれていた意識は、そこまでが限界だった。
再び意識を闇へと引き戻され、男の言葉の続きを聞き取る事は出来なかった。


 


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