「もう会えないから………」


そう呟き、消えた相手。
幼馴染みと思い込んでいたその男について、何も知らない。
何故今まで不審にも思わなかったのか─────



弾かれるように、ゾロは携帯電話に手を伸ばした。
『もしもし、ゾロ? どうしたの?』
かけた相手は、正真正銘の幼馴染みの少女、くいなだ。
「悪い…今、平気か?」
『うん、ちょうど今練習終わったとこだけど…どうしたの? そんな声出して』
戸惑うあまり、僅かに声が震えている。しかしそれを取り繕う余裕もゾロには無かった。
「もう一人…いたよな? おれとお前と、もう一人…」
『え?』
「金髪の男で、同じ高校の……、おれらの昔からの幼馴染みが……」
名前も知らない男。でも、確かにそいつはいたのだと、証明が欲しかった。くいなからの肯定が欲しかったのだ。
だがしかし。
『ちょっと待ってよ、誰の事言ってるの? 小学校からの幼馴染みで私達以外、同じ高校に進んだ子なんていないよ』
何か勘違いしてるんじゃない? と心配そうに受話器の向こうから届く声が、急速に遠のいた気がした。
『ちょっと、ゾロ……』
くいなの問う声が聞こえてはいたが、別れの言葉すら言わずに震える手で電話を切り、電源を落とす。
くいなは、自分の様子がおかしいのを心配しているだろうけど、うまく説明出来そうになかったから。

何も知らない相手。
幼馴染みだった記憶なんて、無い。名前すら知らない。
でも、確かに会い、会話していたのだ。
あの桜の下で、何度も。

「桜…………」

いつだってそこに行けば、あの男がいた。
あの、桜の森。
それを思い出した瞬間、ゾロはアパートを飛び出していた。





桜の木が群生する、森の一部分。
淡い緑に煙る春の森の中で、そこだけが白桃色に彩られている。

その中の一つ、一番存在感を持つ桜の木の下に「彼」はいた。

恐らくは群生する桜の中でも、一番の老木であろう物の根元に座り込み凭れているのは、まだ少年ともとれる外見の男だった。
華奢な身体は、その近郊に建つ高校の制服を纏っているが、その年代の少年少女が醸し出す、華やかな人間味が無かった。
それどころか、人形のような滑らかな白い肌は、血の気すら感じさせない。
本来黄金の色を持つ彼の髪は、満開の桜の花の間から零れる陽光に照らされ、元々の色よりも白く淡く輝いている。

幹に凭れたまま身動きもしない男の周りを、ふわりと数枚の花びらが舞う。それはまるで意思を持つかのように、地に落ちる事なく浮遊し続ける。
「………慰めてくれんの?」
一枚の花弁に指を絡め、目を細める。
「大丈夫、別に……何も変わらないだけだ」

気の遠くなるような永い永い年月を、一人きりで生きてきて。
またこれから、いつ終わるとも知れない時を、一人で重ねてゆくだけだ。
何も変わらず、今まで通り。
人里離れた山深くの、あの桜の谷で。

小さく溜息をつく。
ただ一人、自分の存在に気づいた人間。
唯一、自分を目にし、言葉を交わしえた人間との、遠い約束は果たされる事は無かった。

「────ゾロ……」

呟いた声に応えるかのように、近くで足音が聞こえた。
そして。




「やっぱりここか」
「……」
こんなに近づかれるまで、その気配に気づかなかった自分を内心罵りつつ、男が慌てて立ち上がり振り向く。
「あ………」
「今、おれの事呼んだろ」
振り向いた目線の先には、先程別れを告げてきたばかりの人物が立っていて。
「ゾロ…」
無意識のままに再び名を呼び、立ち尽くす。
次に何と声をかけるべきか迷い、結局判らず黙り込む。
暫く言葉も無く、お互いに戸惑ったように視線をぎこちなく合わせていたが、ついにゾロが口を開いた。

「お前は、何者だ?」
「…………」

名前も知らない。家族も、どこに住んでいるのかも、必死に記憶を辿っても何も判らなかった。
一方的に別れを告げられてからその事に気づき、愕然とした。
今、目の前にいるのは、幼馴染だと信じていた男。
だが幼馴染などではない。探る記憶の中に、くいなとの思い出のように、共に学校に通い学んだ過去も、遊んだ過去も見つける事は出来なかったのだ。

目前に確かに存在している相手。
なのに、何も知らない。
唯一思い当たったのは、あの、つい先程の「別れ」の時以外は、この男とはここでしか会ってはいなかったという事。
ゾロの通う高校の片隅に存在する、未整地の森の中。
桜の木が群生する、森の一部であるここでしか、彼を見た事が無いという事実。
会っていた時には気づきもしなかった。何故か不自然にも思わなかった。

「思い出したんだよ、幼馴染なんかじゃない。同じ高校なんてのも嘘だ。そんな制服着てても…。お前一体……」
「………思い出してなんかいねぇよ…」
諦めたように小さく呟く声が、ゾロの耳にかろうじて届いた。
「名前も、おれは教えたよ。おれが何者かなんてのも、全部────」
「…でも、おれはお前の事なんて知らない」
「お前、じゃない。サンジだ。お前が知らなくても…思い出さなくても」
男のゾロに向ける視線が、剣呑な光を帯びた。
「おれにはお前しかいなかった」
「!!」
身動きする間もなく手首を掴まれ、ゾロは抵抗する間も無く、桜の幹に身体を押し付けられていた。
乾いた堅い幹へと、強く打ち付けられた背に痛みが走り、呼吸が瞬間止まる。

「てめ…っ、何を……」
「思い出せよ────自分の言葉くらい……!」

叫ぶというより、搾り出すような悲痛な声に、思わず抵抗を忘れる。
しかし次の瞬間、強引に唇を重ねられて我に返った。
「な……」
「だから!」
動揺するゾロを益々強く押さえつけて、声を振り絞る。
「だから離れようと思ったのに…終わりにしてやろうと思ったのに…!」
ゾロの肩口に顔を埋め、首筋を痛いほど強く吸う。
「やめろ…ッ」
乱暴に衣服の下に潜り込みまさぐる手に、忘れる事の出来ない恐怖を思い出す。

(まさか─────)

「お前が……、お前が悪いんだからな……!! 何も判らないなら来るんじゃねェよ!」
「あ……何……!?」
サンジが叫んだのと同時に、四肢へと不自然な重力がかかり、動きが封じられるのを感じたゾロが、戸惑いの声を上げる。

(まさか、あの時の)

疑問形の疑惑が確信へと変わる。
「お前が……」
あの時。忘れたくとも出来ない、不自然に身体の自由を奪われ、暗闇の中で何者かに受けた陵辱を。
記憶に焼き付けられた、恐怖と屈辱。
今、あの時と同じように身体を弄ぐる冷たい指先が、肌に這うぬめる舌先が、呼び起こす。
「やめろ…ッ」

(嫌だ………!)


「やめろ…──────サンジ!!」


叫んだ拒絶の言葉に、呼ばれた名前に、サンジの肩がびくりと震え動きが止まる。
暫くしてサンジは、ゾロの肩口に埋めていた顔をのろのろと上げた。
ゾロの目に映ったその表情。
長い睫毛は若干伏せられ、ゾロへと合わせられない瞳も、小さく噛み締められた薄い唇も、それはとても理不尽な暴力を強いた相手のものとは思えない表情で。

(何………)

子供のように頼りなげに、どこか泣きそうに歪められたその顔が。

(どこかで─────)

「思い出せよ…」
ちいさな、小さな震える声が、風に乗ってゾロの耳へ届く。


「おれと共に生きるって」


ふいに風が吹いた。
ざあっと、枝から引き離された花弁が大量に中空へと舞い、ゾロの視線を淡い緋色に染めた。

(どこかで、同じような………)

「…約束…、したのに」


風が止む。
宙に遊んでいた桜の花弁が、ゆらゆらとゆっくり地へと舞い降りる。




(約束?)


(約束……そうだ、どこかで)


(いつだったか)


(あれは───────)




「うあ……!」
「ゾロ!?」
サンジの腕から逃れ、自由となった筈の身に突然痛みが走る。
全身に、何かに打ち付けたような痛みが突如宿り、特に胸の辺りには、焼けるような激痛を感じた。
堪らず蹲ったゾロに、サンジが慌てたように名を呼ぶ。
苦痛に固く閉じていた瞳をうっすらと開き、その声の主を見遣る。
見上げたサンジの表情はやはり、先程のようになきそうに歪んでいて。
後ろに広がる風景は、煙るような桜霞。


(ああ)

(どこかで、見た事がある……な)


その表情も、姿も。
この世のものとは思えない、視界一面に広がる美しい桜の風景も。
果たして、それは何処でだっただろうか。


不安定に浮き沈みする記憶を、痛みに霞む頭の中で、必死に手繰り寄せようとする。


(どこかで──────)




(…………………………
           「約束」………………………………)








「その名に懸けて」





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