窓の外が白んでいる。
ああ、夜が明けたんだなと、床に横たわったままぼんやり思う。
うまく纏まらない思考を何とか纏めようと、ゾロは目を閉じる。



激しく蹂躙され、受け入れる身体と精神の負担に耐え切れず、意識を手放した事を思い出す。
目覚めた瞬間は、見慣れた部屋の風景を認識して、全てが夢かと思ったが。
動かそうとして痛んだ身体に。内奥の鈍痛に。
小さく呻いて悟る。

夢じゃ、なかったと。

瞳を開け、首を巡らせ見ると、身体中に鬱血の印が残されていた。まるで、忘れる事など許さないと主張するかのように、証として。
衣服を剥ぎ取られたままで床に放置され、冷えきった身体に残る、情交の無残な痕。
「……何だよ、これ……」
頭は未だ混乱したままだ。何故。自分の身に起きた事態が理解出来ない。
何故こんな事を、何者が。何故抵抗出来なかったのか。己の指一本すら動かす事が出来ないような状況に陥っていた、あの時。
一体相手は自分に何をしたのか。
目的は一体──────。

何故、何で、何故、と。そればかり。
疑問符だけがゾロの頭を巡る。

.蹂躙されている最中の恐怖は、大分薄らいでいた。
あの時は、命すら奪われてもおかしくはない状況だった。だがそれが杞憂となった現在では、ただ相手に憎悪を抱くばかりだ。
どのような方法を使ったのかは判らないが、相手により身体の自由と視界を奪われ、抵抗を封じた上で、同性の自分にあのような行為を強いたのだ。
忘れる事など、到底出来そうもない、陵辱。
思い出して、その屈辱に身体が震える。



だが。

背後に密着した、正体不明の相手の身体。
肩口に押しつけられた頬が。僅かに震え、───濡れていたような気がするのは。

霞む意識下で、微かな嗚咽を聞いたような気がするのは。



──────気のせいだったのだろうか?






風に揺れる桜の騒めき



流れる川の水音



朦朧とした意識で、自分は死ぬのか、と。
そう思った。
身体を浸した川の流水を赤く染め、流れていく己の血の量は、決して少なくは無い。
体温も急激に下がっている。

寒い。

人里離れた谷底で、誰にも知られず死んでいく。不思議と恐怖は感じなかったが、ただ残念だと思った。
麓の村で、自分を待っているだろう少女との、約束を守れそうにない事が。
彼女の……婚約者の命を助ける事も出来ず、ここで朽ちる事が。
でももう、大量に血を失った身体は、指一本動かす事は出来ない。
浸した下半身を撫でる、さらさらと流れる流水と、木のさざめきを感じながら目を閉じた。



その時。
何者かの気配を感じた。
誰もいない筈の、深い山の合間に位置する、谷。
勿論人など住んではいない。この山には鬼がいるとの伝説もあり、踏み込む者もいる筈がない。それなのに。

「…ふぅん……かろうじて生きているな」

空耳でも夢でもないようだ。
その証拠に、驚いた気配も無い暢気な声がまた掛けられた。

「すげー傷。ほっといたら死ぬぞお前」

場にそぐわないそれに、必死の思いで重い瞼を再度開くと。
視線の先には、見た事も無い、黄金色の髪を持つ男がいる。
自分の村では見慣れない、一風変わった着物を細い体躯に纏っている。打ち掛けの色は、柔らかな淡緋色。
満開の桜と同じ。
谷底の、河岸を彩る大量の桜の木を背景にして、佇んでいる。
その色に、溶け込むかのように。


「────助けてやろうか?」


満開の桜の下。
今にも消え去ろうとしている命に向かって、「彼」はそう語りかけた。



「その代わりに…………」





「!」


ピピピピ、という高い電子音で目が覚めた。

何か、夢を見ていた気がする。

ぼんやり霞む頭を振りながら、布団へと横たえていた身を起こし、ゾロは音の方向へと首を巡らせた。
枕元の携帯電話が鳴っている。
「……ハイ…、……んだ、くいなか」
番号を確認もせず取り上げた受話器の向こうの声は、幼馴染の少女の物だった。
『何だとは何よ! …なに、寝てたの?』
今日学校休んでたから、どうしたのかと思って、と、くいなが問う。
「ああ、悪ィ…」
体調などの心配をして、かけてきてくれたのであろう相手。だが勿論、真実の一片さえ言える筈がない。
「明日からちゃんと行くからさ。…いや別に、何でもねェよ。ああ、じゃあな」
二言三言会話して、電話を切った。
溜息を付きながら見下ろす自分の身体。寝起きで乱れたシャツの合わせから覗く肌には、まだ痕がくっきりと残っている。
朝、あの悪夢の果てに目覚めてから、身体を清めて、布団へと潜り込んだ。平日で授業はあったが、無断で休む程に身体と精神は疲弊していた。

一眠りしたら、大分体力は回復した気がする。精神状態も、少しは落ち着いたようだ。
これなら、明日からはまた何も無かったように、高校へも行けるだろう。
そんな事を考えながら、それでも布団の上でぼんやりしていたら。
コツッと窓に、何かが当たる音がした。

「?」

窓の外を覗くと、下には黄金の髪の幼馴染の男。
この部屋は2階なので、距離はそこそこあるが、それでも白い肌も表情もはっきりと判る。
「よう」などと気軽に手を振ってはいるが、ゾロにはその笑顔がどこか無理しているに感じた。
「何だお前、こんな所で…」
用があるなら、部屋を訪ねてくればいいのに、と思う。
窓を開けると、桜の花弁が部屋に数枚、風に舞いながら入って来た。
向かいの一軒家に植えられた、古い桜の木の物だ。

桜の花。
視界に映る、淡い色のそれは、何故かいつも懐かしさを引き起こす────

一瞬、その景色に気を取られていたゾロに、声がかけられた。
それは、あまりに唐突な内容で。


「…お別れしに来た。もう会えないから」


低く、柔らかい声が耳に入った途端、強い風が吹いた。
舞い上がる、淡緋色の波。花弁に視界を奪われる程の。

「な…!」
思わず瞼を閉じたゾロが、風の収まりを感じて目を開いた時には。
窓の下に在ったその姿は、既に無かった。
(どういう事だ…?)
まだあいつは近くにいる筈。
呼びとめようと、名を呼ぼうとした時。

「……………!」

その名が、出てこない事に気付いた。
幼馴染の筈なのに、そんな訳がある筈ないのに。
必死で手繰り寄せる記憶の中には
「………何で」
何も、相手を証明するものは無かった。

共に遊んだ記憶も無い。名を呼んだ記憶も。
住所も何も、自分は覚えていない。いや違う、覚えていないのではなく、最初から知らない。
────何故、幼馴染だと思い込んでいた…?
名前すら知らない、その相手を。不自然だとも思わずに。

「…どういう事だ……?」

驚愕に身を凍らせたゾロの呟きが、小さく響く。



答えは無く、緩やかな風に未だ舞う桜の花弁のみが、ゾロの疑問を聞くかのように揺れていた。





「その名に懸けて、誓う」




──────「約束」、だ───────





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