同年代の者達が集い、学習する場所。
それなりに良い人間も悪い人間もいるが、サンジが日常に生きている社会よりは、余程純粋且つ単純な生徒達で構成されている空間。
その学校という場所での、平凡な日常。
年相応に自分を「演じる」事が出来るその場所を、サンジは気に入ってはいた。友人と呼べる存在も多かったと思う。
それでもどこか疎外感を感じていたのは、サンジの身の元に周りがどこか一線を引いていたのか、それとも、自らの行動は偽りだと自覚を持つサンジ自身が、周りに一線を引いていたのか。
恐らく、ほとんどは後者のせいだろう。
「この自分は虚像なのだ」と。そう思う心が、深く誰かを心の内に入れる事を、無意識に拒んだのだろうと思う。

そんな中で出会ったゾロの印象は強かった。
凛とした雰囲気は、どこか他人を寄せ付けない。かといって他人を拒むわけではないのは、近づいてみて判った。
他人に影響されず、自分の道を歩んでいるだけなのだと。
そういう生き方が、いつのまにか周囲も、自分自身すらも偽る事が日常になっていたサンジには、眩しく思えた。
だから、もっと近づいた。彼からの警戒心を無くし、親友と周りから思われる距離まで。

近づけば近づくほど、ますますその生き方、存在に焦がれた。
自由に輝く存在。
自由であるというなら、サンジの腹違いの兄であるエースもそうだ。彼に対する憧れも無いわけではない。ただ、エースとゾロでは魂の位置する基本が全く違う。
エースし環境が齎す闇に流されず、自由でいられる人間だが、その心には光も闇も併せ持つ。
ゾロは違う。闇が近寄ろうとも、振り払う人間だ。
焦がれると同時に、壊して引き摺り落としたくなる感情がサンジの心に芽生えた。
自覚してしまった、歪んだ恋心。
大切にしたいと慕う相手を、滅茶苦茶にしたいとも思う、相反する衝動。
そんな自分に気づき愕然としたが、その衝動を実行するつもりは最初のうちは無かった。

事態が急変したのは、今年の夏休み直前の事だった。
療養していた祖父が再び病に倒れ、危篤に陥ったのだ。もう手の尽くしようが無く、時間の問題だと医師は言った。
その時から、胸の内にぼんやりと渦巻いていた影が、はっきりと形を浮き上がらせた。

もうすぐ自分は全てを失う。
ゾロをバイトとして雇い、殊更近くに置いたのも、その予感からだ。
近くに置きたいという想いと、それを破壊するだろう近い未来。
そして、運命の宣告の日が訪れた。


祖父が亡くなったと伝える、一本の電話。



とうとう失くした、と思った。
祖父という大切だった存在もだが、それだけではない。
────己も死んだのだと。「自分自身」も失ったのだと。
そう強く感じた。

今まではも「祖父を助けたい」という自らの意思で、この暗黒に生きてきた。
しかしこれからは違う。後継として、自分自身の為に、このグループを率いて行く事になる。

………自分の為に?

考えて、サンジの口元に皮肉な笑みが浮かぶ。
残る一族の者達に、愛着など無い。大切に思えるとしたら、祖父が広げ守ってきたバラティエという名だけだ。その一族には憎悪さえも持つというのに。
でも祖父が育てた「バラティエ」は、サンジの誇りでもあるのは確かなのだ。

祖父は自分を信頼していた。信頼し生きているうちから、そのかなりの権力をサンジに託していた。
自分は、その信頼を裏切る事が出来ない。
祖父という存在を亡くした今後も。
彼はもういない。これからは信頼する者が誰もいない中、たった一人で、膨大な規模のグループを率いて守って行く事になるのだ。
何の為かも見えない暗黒の中で。
決意は出来ていた。

それでも、胸に広がる虚無感はどうしようもない。



祖父が亡くなったら実行しようと思っていた、「破壊」。
自分も、自分を取り巻く心地よかった僅かな環境も全て、この手で壊してしまおうと思っていた。
全てを捨てて、壊して。自分自身すらも粉々に。
────未練が何も残らないように。

サンジにとっての「自由」と「希望」の象徴。
それがゾロだった。
だからこそ、それを壊さなくてはならないと思い込んだ。もう自分には必要の無い物だったから。
その破壊こそが、己への埋葬の儀式だと、あの時は確かにそう思ったのだ。

サンジのゾロへの思いに気づいていたエースは、「手に入れるつもりか」と聞いた。そしてサンジは「そうだ」と答えた。 
だが、それは正しい表現ではない。
サンジにとっては、手に入れるのではなく、完全に断つ為の手段だった。
何よりも大切なものを、この手で。
あの運命の電話で、心に巣食っていた躊躇いは吹き飛んだ。

容赦無い言葉と行為で傷つけて。この手で全てを壊したのに。

これでもう、光も射さない闇の中で、からっぽのその世界で、絡まる糸に逆らう事もなく生きていく事が出来ると思ったのに。





「……遺書?」
その知らせは唐突だった。
祖父が生前にしたため、亡後に開封されたという遺書。
その存在をサンジが知らされたのは、ゾロに暴行を加えた直後、本宅に戻った時の事だった。
手渡された書類。その中に、確かに祖父の直筆の遺言状と、サンジに宛てた手紙があった。
そこに書かれた文を読み進めるサンジの身が強張って行く。
手紙に書かれたそれは、祖父からの謝罪だった。

利発な孫。祖父はその才覚を誰よりも認め、若輩の身でありながら的確に経営を進めるサンジを誇りに思っていた。それはサンジも知っている。
だが、手紙にはこう書かれていた。
───お前の自由を奪ったのは知っていた。その苦しみも知っていたのに。
それでも解放してやれなかったと。
その事に対して一言、すまない、と。


血の繋がる孫であるサンジに対し、祖父は祖父なりの葛藤があったのだと、手紙から知れた。
明るく優しかった子供。
祖父である自分を慕い、庇われた事に負い目を感じているのを知っていたのに。その生来の純粋さが、黒い社会の中で変化していくのを近くで見ていたのに。
それでも手放せない程に愛しかった。
『すまなかった』と。
几帳面なはっきりとした字で、書かれていた謝罪。
そして。

『もう良い。もう充分だ。
お前は充分尽くしてくれた。だから』

無意識に小さく声に出しながら読んでいたサンジの言葉が詰まった。

『自分の夢に向かって歩け』
『お前はお前だけの道を』



────伝えた事などなかったのに。
心の奥底に、別の道を望む自分がいたのは確かだが、それを微塵も出した事は無い筈だった。一言も、夢を伝えた事など無かったのに。
言わなかったのに、祖父は察していたのだと、その時初めて知った。

暫く、手紙に皺が寄る程に強く握り、サンジはその場に立ち尽くしていた。
どうしていいのか判らなかった。
自分の中で固めた決意を、彼の死によって更に今までより強固に自らの心を戒めた糸を、急に解かれ解放されたのだ。
祖父に対して複雑な思いもあった。しかしそれは、すぐにお互い様だと思い直した。
祖父は祖父で苦しんでいたのだろう。
自分と変わらない。
二人の間にあった強固な絆こそが、二人の苦しみの原因だったというのなら、そのジレンマはどうする事も出来なかった筈だ。

手放す事も出来ない、距離を置く事も出来ない。
いや、例え距離を置き暮らす事が出来ても、本当の意味では離れられない。

祖父が病に伏した頃、療養として経営の中心から遠ざかった。祖父なりに距離を置く覚悟からの隠居だったのかもしれないが、結局二人の関係は何も変わらなかった。
むしろ、その事がサンジの存在をグループの中で強大な物にしてしまった。
自分もそうだったではないかと、サンジは思う。
負い目もあった、しかしそれ以上にただその近くにいたかった。
相手にとって重要な存在でありたかった。

それは結局、二人を結ぶ絆によるものだ。

だから、その事について後悔するつもりは無い。
ただ、こんなにも突然自由を与えられても、戸惑うばかりなのだ。どうしていいのか判らない。
闇から突然光の下に連れ出されても、暗黒に慣れた目には何も映す事が出来ないように。

戸惑うその背を押したのは、エースの言葉だった。

「解放されたんだろう? なら、やりたい事をやって何が悪い?」

簡単にそう言う彼に、そんな単純なものかと非難したが。軽く笑って「お前が複雑にしてるだけだろ」と返された。

「あの会長…お前のじーさんが育てた物を守り続けるのもいいさ。だが、そのまま行ってもお前は会長を越える事は出来ないだろうな。…越えたいとも思っていないかもしれねーが」

おれの知った事じゃないんだがな、と突き放すような言葉を吐くが。


「時間はある。ゆっくり考えてみな。…あの会長が、あれだけお前に執着していた奴が、最後の最後でお前に何を望んだのか」



それだけを言って、背を向け帰っていった。




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