「…てー…」

広くはないが綺麗に整頓された、部屋のソファに座り込み、呟くサンジの右頬は酷く腫れている。
「……きょーれつな左フック……」
人通りも結構あった住宅街の通りで、立ち話をしていた二人の男のうち片方が、いきなり向かい側に立つ相手を殴り飛ばしたのだ。
殴られたもう一人の男が、気を失い倒れる程の狼藉を見た、心優しい隣人達が、警察に通報する騒ぎになり、一時通りは騒然とした。
危うく連行される所のゾロを、目を覚ましたサンジが慌てて止めるなどの騒ぎも、先程漸く収まり。
事情を伺う警察に、全く会話は出来ないゾロに代わり、サンジが色々説明して、何とか帰ってもらったばかりだった。

先程までの騒ぎの時とは打って変わって、静かになった部屋は、そろそろ夜の薄闇に包まれ始めている。
サンジが小さく呟いた言葉に、返ってきた返事はやはり淡々としている。
「自業自得だろう」
「……ああ……」
ゾロの一言に、頷き俯く事しか出来ない。

「……………」

そのまま、沈黙が続く。
しばらくの間続いたそれを、破ったのは、小さなサンジの謝罪の言葉だった。
「……ごめん」
耳に届いたそれに、ゆるりとゾロの視線が向く。
「まさか、来るとは思わなかった」
「…お前に何も聞かないまま、何も無かった事にしろと?」
逃げ出しやがって、という舌打ちと共に吐き出されるゾロの台詞に、やはり胸が痛む。

「テメェが何を考えてたのかも判らない。何が理由かも判らない。…おれは結局、お前の事何も知らないじゃねーか」

そう、何も告げなかったのだ。
出来る事なら、何も知られたくなかったというのが、今でも本音である事には変わりない。
別の家庭に生まれて、普通に育ち、そうしてゾロと出会って友人になれていたら。
高校で演じていた「自分」が、己の本当の姿だったならば。
その自由さや、柵の無い生き方に、苦しい程の憧れを持つ事もなかったのだろう。
歪んだ羨望と、捻じ曲がったまま芽生えてしまった恋心。
護りたい関係とその対象を、壊してしまいたいと熱望する程にまで、心の闇は広がっていた。
そんな醜悪な自分を知られるのが嫌でしょうがなかった。
全てを隠して、自分の姿を偽り続けて。
自分も苦しかったなんて、言い訳にもならない。
ゾロは何も悪くなかったのだから。

「エースから色々聞いたんじゃねえの?」
暫くの沈黙のあと、ぽつりとサンジは言う。
「あいつは、おれの事なら大体知っている。別に変な関係とかじゃなくてそれは」
そのサンジの続けられた言葉を遮ったのは、少し強さを込めたゾロの声だった。
「おれはお前から何も聞いていない」
向けられる視線にも、憤ったような光が込められる。
殊更「お前から」という部分に力を入れられたそれ。
「エースに聞いたのは、この住所と、お前とアイツが腹違いの兄弟の一人だって事だけだ」

半分の血の繋がりを持つ、兄という関係の一つ年上の男。
サンジの父親が妾に産ませた子の一人。それがエースだった。
他の腹違いの兄弟とは、ほとんど不仲である、というより、一方的に敵視されているサンジだが、エースとだけは違った。
妾であったエースの母は、権力への欲は示さず、エースを産むとすぐに屋敷を出たのだ。
その後に産まれたサンジは、長い事エースの存在を知らずに育った。
エースの母は、その後他の男と結婚し、元の情夫の一族には無関係に生きる道を選んだからだ。
エースも自分の素性は、ある程度の年になると判ったらしいが、一族の権力には何の魅力も感じる事はなかった。
彼にとって大切なのは、そんな見知らぬ一族より、自分の家族だった。母は早逝した後は、弟を彼が守って生きて来たのだ。
ちなみに彼の弟であるルフィとは、サンジは全く血の繋がりは無い。エースの母親が、屋敷を出て結婚し、その後に出来た子供だからだ。
出会ったのは、偶然。たまたま同じ学校に進学さえしなければ、一生この腹違いの兄とは、縁が無く生きていただろう。
しかし、出会ってからは妙にウマが合い、共に語る事も多くなった。
驚いたのは、エースとルフィの関係。母を同じくする、まぎれもなく兄弟の二人が、一般的には禁断と蔑まれるであろう一線を越えていた事。
しかしそれは、エースにとっては自然な事であったらしい。
暗闇に位置しても、自分の自信を損なう事はなく、前を見据えている。
己と同じ血を確かに持ちながら、その柵に捕らわれる事は無く、自由でいる存在。
その身を堕とし、心を取り巻く筈の闇ですら、彼は征服していた。
こうありたかったとは思う。
この闇に、嫌悪も感じる事なく、それすらも従わせるだけの精神力があれば。
そうすれば、ゾロを傷つける事も無かったのだろうと。




「おれは、お前から聞きたかったんだ」
そうゾロは繰り返した。
友人だった筈のサンジに、裏切られた。それだけではなく、何も告げず、ただ翻弄し自分の前から逃げた相手。
理由すら判らないまま。
それが、ゾロにとって何より我慢ならなかったのだろう。
その為に、こんな所まで来たと言うのならば。

忘れられない程の傷を残してやろうと思った。
それすらもゾロは乗り越えて来たというならば、今度は逃げ出す訳にはいかない。
ゾロは、納得の行く別れ方を望んでいるのだろう。
自分の身に起きた全ての原因を知り、翻弄されるだけであった行為の持つ意味を。



「ジジイ…祖父が残した遺言が、全てを変えたんだ」

ぽつりと、サンジは話し出した。



サンジはその卓越した手腕を買われ、バラティエグループ会長の後継としての立場に上り詰めた。
必然的に、バラティエの次期会長として一生を生きていく筈だった。
サンジは祖父が好きだった。
祖父もサンジを特に可愛がり、一族の中にも外にも敵の多いその立場を理解し、後ろ盾となり出来る限りは守ってくれていた。
しかし、その手が届かない場所も多く、幼い頃からサンジは何度も危険な目に遭ってきた。様々な方面から命すら狙われ、そんな中で左目の視力を失った。
向けられた飛び道具が当たったのだ。脳まで届けば死んでいただろう。
それ以来、右目も若干視力が低下し、たまに眼鏡も使用している。日常に左程支障があるわけではないが。
そして、祖父もまた身体に障害を負っていた。原因は、サンジを庇ってのものだった。
サンジには、それが負い目にもなっていた。
もう、何年も前の事。小さな子供を狙った銃弾は、それを庇った祖父の足に当たった。
命に別状は無かったが、その足は祖父の意思で動かす事は出来なくなっていた。
バラティエグループの経営に支障は無かったものの、それは幼いサンジの心に影を残し、その時から彼は祖父の経営の手助けをするようになった。
最初は勿論、ママゴトのような手伝いで、経営に影響を与える程のものではなかった。
しかしそれが長く続くうちに、サンジの内に眠っていた才覚は、目を見張る勢いで現われ始めた。
やがて彼は、祖父の有能な影と呼ばれる程にまで上り詰める。

道を間違えたとは思わない。大好きな祖父を手助け出来ていたという自負はある。
しかしそれはあくまで「祖父の為」なのだ。
祖父がいなければ、とうにサンジは家を飛び出し、資産はなくとも自由に生きていただろう。
それでも、泥水に身を浸すような世界で権力を身に付け、生きていたある日。



サンジは、ゾロに出逢った。




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