長い休みが終了する間際に、自主的に辞めた学園生活。
クラスメイトの誰にも何も告げないまま住処を移し、訪れたこの地で夏の終焉を見届けて。

色鮮やかな秋が訪れ、やがて葉も枯れ果て冬がやって来た。





衣服を染み透って来る低い外気に、肌を震わせながら、サンジは家路を歩いていた。
日本の、今まで過ごしていた冬よりも寒さを感じる。平均して4℃くらい、こちらの方が外温が低いらしい。
────今立っている、ここフランス、パリの地。
建物の隙間に覗く、僅かに夕焼けの赤色を滲ませた空を見上げて、サンジは変わらない美しさを実感する。
空は、かつて住んでいた日本の地と、何も変らずにそこに在る。
眺めていると、自分が今いる環境を忘れそうだ。
偽りであっても、心地良かった学園生活も。
それとは対称的に、繰り広げられた血による権力の禍も。
それら全てを捨てて、日本からここ、フランスまで渡って来た事も。

ただ、傷付けて、置き去りにした大切な──友人の事だけは、忘れられそうにないが。

ふと思い返して、溜息をつく。


まだたった、4ヶ月前の事。
それでも、遠い昔のような気がする。





町外れに佇む、小さなアパート。
古びたその建物の一室が、今のサンジにとっての帰るべき家だった。
今まで、日本住んでいた屋敷とは、あまりにも違う、その狭い空間。
ただ、面積の狭さに不自由を感じる事は無かった。元々の住処が、広すぎたのだ。
あの屋敷は、一人で居るには広大すぎた。
子供の頃は、使われていない暗く静かな部屋を見る事に、恐怖すらあった程だ。
屋敷に誰もいなかった訳ではない。使用人なども、多数出入りはしていた。
だがそこは、サンジの思い描く「家庭」では、決してなかった。
暖かみなどは全く無い、がらんとした、ただっ広い空洞みたいな屋敷だった。
本宅に帰れば、何人かの人間は住んでいたが、それも到底家庭などと呼べる代物ではなかった。
自分を影で敵視しつつも、表面上は媚び諂う叔父夫婦と、離れに住んでい父の妾とその子供達に囲まれた、冷めた空間。
その中で唯一、祖父だけは好きだったが、加齢により体調を崩し、経営の一部を自分に託し、静養出来る静かな土地へと住処を変えてからは、居心地は益々悪くなって行った。
最終的に、屋敷を出て一人別宅に住む事を選択させた程の、豪奢な屋敷内の冷えた人間関係。
権力欲と、打算の渦巻く人々に囲まれて、自分を殺し続けて。
だがしかし、そんな周りの輩を誰よりも上手に操れた己こそが、一番唾棄すべき存在だと、ずっと感じていた。
昔は、必要だったのだ。その環境で暮らし、身を守る事が。年端もいかない自分に架せられた、防御と世渡りの術の体得。
守ってくれる筈の両親は、幼い頃に失った。
世襲制でここまで巨大な組織となった、血族経営のバラティエグループ。
父を失った時点で、後継の資格はサンジに移った。
兄弟は多数いた。ただ、「本妻」の息子はサンジだけだった。
それだけではない。
彼が幼い頃から見せた、経営者としての才覚。その手腕は、誰もが目を見張る程だったのだ。
まだ中学に通うような子供が、会長に任された事業を悉く成功させ、店舗を広げ、ライバル社を倒し、利益と資産を増大させた。
会長───サンジの祖父が、そんな孫の才覚を誰よりも認めていたから。
一族もサンジを認めざるをえなかった。
例え、権力に固執し、サンジの存在が邪魔な人間であっても。
譲り受ける莫大な資産を目的に、我が子こそを後継にと望む、幾人もいる腹違いの兄弟の母達。父の妾であったその者達は、あからさまにサンジの存在を邪魔に思っているのが判るというのに、彼を認めざるをえないのは、歯軋りする思いだったろう。
幼い頃は、命を狙われた事すらあったのだ。
祖父の庇護は存在したが、結局はたった一人でそれを躱し続け、才覚を伸ばし、簡単には存在を抹消されない程の権力の座を手に入れた。
ただ、それは自分の本来の姿ではない事は、己が一番判っていた。
必要に迫られて固めた鎧。
それが脱げなくなりかけた時に、転機が訪れたのだ。

叶わないと思った夢へ、届くかもしれない、恐らく人生のうちで唯一であろう転機。
迷った末に、全てを捨てて夢を選んだ。
捨てた物は、ほとんどが、取るに足らない程度の物ばかりだった。
ただ、その中には、心が軋む程に失いたくない物も、確かに在った。

誰よりも護りたくて、そして何よりもこの手で壊してしまいたかったもの────





歩く道筋の先に、現在の自分の住むアパートが見えて来た。
今の住まい。部屋は、微々たる広さだ。リビングを入れて2部屋あるそれは、日本で一般的に想像される「アパート」よりは、幾分空間を感じられる作りのような気はするが、前に住んでいた屋敷とは比べるべくも無い。
空洞のような空しさを感じる事もあるが、それは日本にいる時に感じていたものとは、別の種類のものだ。
それに今は、職場も忙しく、家事なども一人でこなす為に、一日が24時間では足りないと感じる程に動き回っている。
一人の部屋の空しさや、寂しさなどを感じるゆとりが無いのが、幸いといえば幸いだった。
ふと空いた時間に、過去へ意識を飛ばしている事は、やはりあるのだけれど。
たとえば、今のように。
ほんの少し、澱んだ空を見上げただけで。



視線を戻し、歩く程に視界の中で大きさを増す現在の小さな我が家を眺める。
少し古びた、クリーム色をした壁のアパート。その入口に、誰かが扉を背にして立っている。
「…よう」
息を飲み、声を発する事が出来なかったサンジに、かけられた小さな呼びかけ。
忘れもしないその声の持ち主は────
「久しぶりだな」
手酷く傷付けて、壊した筈の関係。
もう二度と会う事はないと思っていたその相手。
「サンジ」
サンジに向かってかけられる淡々とした声音に、感情は読めない。

「………ゾロ………」

やっと発する事が出来た言葉は、震え掠れていた。



たった、二文字のその単語に、その相手の名に。
自分でも計り知れない程の、どれだけの感情が込められていたか。



「遠すぎんだよテメェ」
それ以上言葉を紡げなかったサンジに対する、ゾロから語られるばかりの、会話になっていない一方的な呼びかけは続く。
ともすると棒読みのように、低く、淡々と。
「色々探したんだけど、全然おれじゃ手がかり掴めなくて」
「会社に電話しても、結局なしの礫だし」
「しかしまさかフランスとはな。アイツに住所のメモもらっても、最初読む事すら出来なかったっての」
ヒラヒラと右手に持って振っている、小さなメモ用紙。
そこに記されたフランス語の短い文字と数字の羅列は、ここのアパートの住所だ。
サンジにとってそれは、見覚えのある、クセのある字体だった。
「…エースか……」
少し考えれば、確かにそれ以外に、ゾロがここを知る原因は思いつかなかった。
日本を発ってからサンジが、連絡をとっていたのは彼一人だけだ。
親族にも、友人にも。エース以外は誰一人、何も告げないまま飛び出したのだ。
世界への影響力も持つ自分の一族に、行方を本格的に探られれば、発見されるのは時間の問題だが、こうも短期間で見つけられるとは思い難い。
そして、発見されたとしても、それをゾロに告げるとも思えない。

「サンジ」

黙り込み俯いたサンジに、かけられた呼び声。
初めて感情の揺れを見せたそれに、思わず顔を上げると。
「とりあえず殴らせろ」
そう耳に入って来た次の瞬間。
頬に激しい衝撃が訪れ、視界が暗転した。




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