体調を崩した。
だから、「バイト」は休んだ。契約主には無断で。
契約不履行。
そんな言葉が脳裏を掠め、だるく熱まで上がり始めている身体で無理矢理にでも行ってやろうかと考えたが。
叩きつけられ踏み躙られたプライドがそれを許さない。
かといって、こうして家にいる事が、あんな行為に傷ついて逃げているようにすら思え、それがまたプライドを刺激し傷つく。
矛盾している。
考えが纏まらないのは、関節の痛みすら伴う程に上がってしまった熱のせいか。

(もっと上がればいい)

寒気に震えながらも、そんな事を思う。
熱による悪寒や疼痛。
それらが、身体に残るアイツのもたらした痛みを忘れさせるくらいに酷くなればいい。
心ごと抉られた苦痛も忘れる程に。


無断欠勤を咎める電話が来るかもしれないと思っていた。
かかってきたら、何て答えればいいか判らなかった。
怒鳴りつけてしまうかもしれない。
何も喋る事が出来ないかもしれない。
どうしたらいいか、霞む思考でずっと考えていたけれど。
だけど、結局その日はどこからも電話はかかってこなかった。





二晩ほど寝たら、熱は引いてしまった。
起きて、ちゃんと食事もとれた。身体に痛みは何も残っていない。
今日は、どうすればいいのだろう─────。
カレンダーで確認する。…今日は、サンジと契約した「バイト」の最終日。
少し考えた後、ゾロは電話の受話器を上げた。
「…もしもし」
「ゾロ? どうしたんだい?」
かけた相手は、ゾロの通う道場の師匠。いつも通りの穏やかなその声に安心する。
最近はバイトもあり、対戦相手のくいなも受験で忙しい事から、通う日数は子供だった頃に比べると、随分少なくなっている。
何だか、こうして師匠の声を聞くのも久しぶりな気がした。
「いや…ええと、変な話聞いて、それで……気になって」
「変な話?」
「…道場が、買収されそうだったって」
「ああ…その事か。もう解決してるよ、ゾロ。大丈夫。でもどうして知ったんだい?」
もう一年以上も前の事で、その問題は解決していると言う。
何も心配はいらない、と。
「おれの……知り合い、が、バラティエの関係者で、そんな事匂わせてたから…まだ諦めてないかもしれない…」
友人と言いかけた言葉を飲み込み、曖昧な表現にする。
あんな事をする友人なんているものかと思う。
突然の裏切りの行為に、身体は癒えても心はまだ傷が塞がっていない。
「大丈夫だよ。そのバラティエの後継の子が保証してくれた。もうこの辺の土地には手出ししないとね。正式な書類もある」
「後継?」
「まだ凄く若い子だったけどね。ゾロと同じ年の高校生なんだけど、事業にも深く関わってたみたいだし、信頼出来ると思ったよ。そういやゾロと同じ学校に通ってる筈だけど…」
まさか、と思い当たる人物が脳裏に浮かぶ。
「土地のゴタゴタ、ゾロや他の皆に心配かけると思って何も言わなかったけど…結局心配かけてしまったね。すまないね」
師匠が謝る声も、ゾロはまともに聞いていなかった。
「先生…」
「ん?」
「そいつ、…後継って、そいつの名前…」
きちんと聞く事が出来ず、どもるように受話器に向かい言葉を紡ぐ。
「ああ、確かサンジ君とか言ってたな。バラティエ全体で纏まりかけてたこの土地での出店計画を覆してくれたのも、彼なんだよ。同じ学校みたいだし、もしかして知ってるかい?」

────その名前を。

「ゾロ?」

聞きたくなかったと、思った。


突然黙り込んだゾロをいぶかしむように呼ぶ師匠の声。
それに答えず受話器を置き、ゾロは部屋を飛び出した。





目の前の門は固く閉ざされている。
何度チャイムを鳴らしても、誰も出てこない。
「サンジ、いるんだろ! 出てこい!」
インターフォンに向かって叫んでも、なしのつぶてで。住宅街のこの道には通行人もそれなりに多く、怪訝な顔して見られてしまう。
いっそ門を飛び越えて入ってやろうかとも思うが、不審気に注目している通行人や近所の住人達が、警察でも呼びそうな気配を纏わせていて、ゾロはそれを諦めた。
帰路につきながら、混乱する思考を纏めようとする。

先生が言っていた事が本当で、土地の買収を止めたのがサンジならば。
何故、自分にあんな事を言い出した?
自分を言いなりにする為の嘘だったのか。
だけど、何故。
非道な言葉も、行為も、全ての理由が判らない。
あんな風に信頼を、友人としての思いを踏み躙られる程に憎まれてでもいたというのか。
いつも、とても明るい笑顔で自分に接していたのに。
見てるこっちも嬉しくなるくらいの─────。

何も纏まらない頭には、様々な感情が渦巻く。
怒り、疑問、そして悲しみまでも。
あんな手酷い裏切りを、許そうとは思わない。
だけれど、理由を知りたい。
何か、自分に対して嘘をついている。それが悔しいと思う。
何でもいい、何か話したい。会って話して、事態を動かしたいと思うのに。
その後電話も繋がらず、屋敷の門も閉ざされたままで。

気付いたら夏休みも終わってしまっていた。





二学期初日、久々の登校。
今日こそは会えると思っていたのに、サンジの机はいつまでたっても無人のままだった。
始業式が終わって、教師が教室に入ってくる。
「突然だけど、夏休み中にサンジが退学した」
挨拶が終わると、教師はそう切り出した。
その言葉の衝撃に、ゾロが目を見開く。
「慌しい結論で、挨拶も出来なかった事を、皆に謝っておいてくれと伝えられたよ」
突然だな、とか、何で、とか。騒めく教室の中で、ゾロは無言で固まっていた。
そんな中、サンジはこの町から既に引っ越したと教師が伝える。
叩いた門の向こうには、誰もいなかった事をゾロはここで初めて知った。

「なあゾロ、お前サンジと仲良かっただろ。理由聞いてねーの?」
休み時間となり、かけられたクラスメートの疑問の言葉に、首を横に振るのが精一杯だった。
「いきなりだもんなあ。何あったんだろサンジ」
「やっぱアレじゃねーの? バラティエって、こないだ会長が死んだから、お家騒動とかに巻き込まれたりとかで大変なんじゃねぇの?」
教室内から聞こえたそんな会話に驚き、ゾロは顔をそちらに向けた。
「今、何て……?」
「知らねぇの? こないだ新聞に小さくだけど載ってたぜ。会長死去、ってな。サンジはあそこの孫だろ? 何かゴタゴタしてんじゃねーの?」
問いかけたゾロに、そのクラスメートがそう答える。
(会長が死亡…?)
サンジから、家の事を詳しく聞いた事はほとんど無い。
だけど、先日電話した師匠は、サンジの事を後継ぎと言っていた。話を聞くと、サンジが、会社の代表として接したかのようだった。
何かやはり、関係あるのだろうか。

HRが終わり、教師を捕まえてサンジの転校先を聞いてみたが、教師は知らないと答えた。
誰にも何も伝えず、サンジはいなくなってしまったのだろうか。
だけど、手は有る。サンジの居場所の目星はついている。
バラティエ本社。
サンジが本当に後継で、事業にも関わっていたとしたら、そこにいる筈。





「申し訳ございませんが、当方では彼の行方は判りません」
丁寧で優し気に響く声は、ただそう繰り返すのみだった。
本社の連絡先を突き止め、アパートの自室から電話したゾロは、まずサンジを出せと伝えたのだが。
それに対する電話の受け付けらしい女性の答えは、どんなに尋ねても「判りません」の一点張りで。サンジがその会社に関わって、そこに居たらしい事は聞き出せたのだが、今はもう来ていない、行方も知らないと言う。
しばらく食い下がってはいたが、やがて諦めてゾロは受話器を置いた。
(仕方ない、今度の週末にでも、直に会社に乗り込むか…)
日帰りするのも辛い程の、遠い住所を見て溜息をつく。
気の長い方ではない。本当なら、今すぐにでも行きたいところだが、時間的な面で、そうも行かないのが悔しい。
金銭面でも、バイトしてなかったら辛いところだったが。
サンジの家でのバイト代は、きちんとゾロの口座に振り込まれていた。
通帳を見て、また溜息をつく。
…今となっては、これだけがサンジと共に夏休みを過ごしたという証だった。

その時、今受話器を置いたばかりの電話が鳴った。

(サンジ!?)
一瞬そう思い、受話器を上げる。
この自分の部屋に電話をかけてくる人物は、はっきり言って少ない。その中で、最も回数多くかけてくる人物が、サンジだったのだ。
「もしもし」
途切れそうになる呼吸を押さえ、低く口に出す。
「あ、ゾロか?」

違う。
サンジの声じゃない。
聞いた事はある声だが、サンジのそれではない────。

「……誰だ?」
軽い、失望感。それを押さえて問うと。
「おれ、覚えてない? こないだ一緒に酒盛りしたろ?」
明るい声が耳に飛び込む。
聞き覚えのあるこの声は……。
ゾロはしばらく考えて思い出した。



そうだ、確か、ポートガス・D・エースとかいう名前だった。




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