幼い子供の頃、自分の手を包み込んでくれる、父親の大きな手が好きだった。
並んで歩く時、背の高い男に対して腕を伸ばすような形で、繋いでいた手と手。
夜寝かしつけられる時も、その手を握っていると、何故か深く心地良い眠りに就けた。

────幾つぐらいからだったろうか。
その手を離し、一人で歩くようになったのは。
一人で眠るようになったのは。




父親であるマジックの庇護の元、彼の言う事だけ聞いていた幼児の頃には知らなかった世界が、年を重ねる毎に見えるようになってくる。
マジックは隠したかったようだが、それに甘んじるには、この世界には情報が氾濫しすぎていた。
いつしか、彼が世界に名だたる暗殺集団のトップに君臨する権力者だと知り、その瞳に恐ろしい力を宿す事も判るようになった。
それでも、彼から離れようとは思わなかった。それどころか、その跡を継ごうと団に入隊する道すら選んでいた。
馬鹿にするような発言をしたり、反抗したりもした。ある程度の年になってからは、敢えてそんな態度を取るようにしていたから口にはしなかったが、心の底では常に畏怖と畏敬の対象でもある父親だった。そんな彼にただ認められたかったのだ。

しかし弟のコタローが生まれてから、それまでのそれなりに良好といえた関係は一変する。
可愛く無邪気な弟とは、マジックによって引き離され、弟はどこかに幽閉されてしまった。
父親との喧嘩なんてたえずしていたものだが、親子ゲンカの域を出ないそれまでのものとは全く違う。この一件で、マジックに初めて、殺意を持つ程の憎しみを抱いたのだ。
本気で、この父を殺して弟が解放されるのならば、とすら考えた。
恐らくその殺意を実行に移そうとしたならば、情愛による違う感情も芽生えただろうし、実際は実行することなど出来なかったのだけれど。
だが、そんなドス黒い闇に心が染まる程、あの頃追い詰められていたのは確かだった。

そして、己の説得を聞かず、本気で反抗し憎悪をぶつけてくる息子に対し、マジックも焦燥感があったのだろうか。常に見せていた余裕が、弟について糾弾する度に無くなっていくのが判った。
元々、息子である自分に対しては、愛情過多だった男だ。強すぎる愛情は激情にも変わり易い。
自分に向けられるものが普通の父親が子供に向ける愛情とは、一線を画すると感じるようになったのは、ある程度自立心が芽生えてからだ。
一方の息子は溺愛し、一方の息子は監禁する。
「お前さえいればいい」と彼は言う。
そんな言動が、愛情が、どうしても判らなかった。
コタローは、潜在的に強大な力を持っているらしい。にしても、まだほんの子供だ。強力な力を持ち、様々な経験も積んでいるマジックに対して、何も出来やしないだろう。
それでも、父にとってそれ程脅威だというなら。それならば幽閉などせずに、俺と共に力の及ばない遠国にでも捨て去ってくれればいいのにと思った。自分は年齢的にも精神的にも、自立が不可能ではなかったのだから。弟を守り、どこでだってきっと生きていける。そう思っていた。
だが、マジックは弟の幽閉も解かなかったし、俺が離れる事も許さなかった。
己から手放そうとはしない。しかし、敵対する意のままにならない者は捻じ伏せ抹殺してきたマジックにとって、他人と同様に簡単に消す事の出来ない息子は、どう扱っていいのか判らなかったのだろう。
解決策が見つからないまま、日ごとに俺達の関係は険悪さを増してゆく。

危ういバランスの糸は、ある日簡単に切れた。




マジックの自室に押しかけて、弟の情報を何とか聞き出そうと、その日も詰め寄っていた。
教えろ、と何度も怒鳴った。頑なな相手に激昂し、殺してやる、とも叫んだ。
放った言葉は全て、嘘ではなかった。
勿論、俺に簡単に殺される相手などではないと判ってはいたから、どこまでその殺意が本物だったかは、今思うと自分でも不明だけれど。
しかし、心に巣食う闇はお互いの心を黒く染め抜いていて、俺はもう限界だった。
そして、恐らくマジックの方も同様に。
きつく眦を上げた視線が正面から合い、絡まる。
睨み合う。
───そんな状態が暫く続いて。睨みつつ、俺が再び毒づいた時。
見下ろす相手の冷たい蒼眼に、激しい感情の火花が散った気がした。

「!?」
その瞬間、伸びて来たマジックの大きな手に手首を掴まれ、強引に床に引き倒されていた。
吐息が触れるほど間近で見る青い目は、あまりに冷酷な光を点していて、思わず身体が震え肌が粟立つ。
それは紛れも無く、恐怖心による竦みだった。
だが認めたくなかった。だから、必死にその目を睨みつけていた。睨みながら、足掻く。
俺の両手首を纏めて押さえているマジックの手は、片方だけなのに。両腕に渾身の力を籠めて身体を捻っても、その手は振り解けなかった。
その力の差が情けなくて仕方なかった。

支配する、絶大な力。

「何……ッ」
空いている片手を襟元にかけられ、破くように衣服を剥がれ、彼が何を目的として行動しているのかが判った。
同性、それも血を受け継いだ相手に対してなど、普通なら考えられない行動。
「どうして、お前は……」
間近から見下ろす男が小さく呟く。低い響きの言葉は、一旦沈黙に途切れた後、「私がどんなにお前を愛しているのか判らない?」と続いた。
だが、違うと感じた。少なくとも今は。
愛情に拠って身体を繋ぐのが目的なんかじゃない。見下ろす視線には、そんな欲望の熱は感じない。
目的は、支配だ。
一番屈辱を感じる方法で、矜持を殺ぐ手段として、身体ごと心まで支配しようとしているのだと、本能が感じ取る。
歯向かう敵の牙を抜き、敵対する意思を消失させる程の傷を与え、抵抗を封じ支配下に置く。抗えば抗う程、弱らせる為に傷を深く抉ってくる。
ならば、と。俺はそこで抵抗するのをやめた。

大事なものを奪われ、憎み、殺したい、と思っても。
結局この男を殺す事など出来ない。
力も敵わない。それに、過去に培われた愛情が心に蓄積されており、それは記憶ごと捨て去らない限り、どんなに憎しみに塗れても消す事は出来ないのだ。
だが、コタローへの兄としての愛情も本物で、こっちだって消せない。
弟にについてのしがらみがマジックとの間にある限り、その支配を受けるわけにもいかない。
葛藤する思いは袋小路に迷い込み、出口は見つかりそうに無かった。
ただ、こんな行為には絶対屈したりしない。それだけを決意し瞳を固く閉ざした。




衣服を剥がれた後、いきなり下肢を弄ぐられて息を呑む。
濡らしてもいない指が体内を探り出す。その性急な動きに優しさは無く、齎される感覚は苦痛のみだったが、唇を噛み締め声を上げずに耐えていた。
声は出さないものの、痛覚を鋭く刺激される度に吐息は浅く乱れて、額には脂汗が浮く。
お互いに、言葉は無かった。

こんな行為は、異常だと。
後で思えば、とてつもなく常識を外れている行動だと判るのに、その時は何故か、反抗する自分に対して彼がこうするのは、当然のように感じていた。

狭い箇所を広げていたマジックの指が、体内から引き抜かれる時の感覚に怖気立ち、無意識に身体を捻って逃れようとしてしまう。そんな自分に気づき、意識して深く息を吐き、落ち着こうとする。こんなことは、何でもないと。
とりあえず体内を犯す指の痛みから、逃れられただけで安堵はしていた。その程度の痛みなど、序の口だと知るまでに時間はかからなかったけれど。
足を掴まれ、大きく広げさせられる。そこに割り入る相手の身体が、腿や下肢に触れる。そこから低めの体温が伝わってくるが、今まで指で解されていた箇所に当てられた性器は熱く硬かった。
その熱に、どうしても身体が竦む。本能的に怯える身体を心で叱咤し、決意する。
───絶対、声は上げない。言葉でも行動でも、制止も求めたりはしない、と。
そうすれば、何故か負けない気になっていた。こんなのは勝負でも何でもないのに。
ほんの少し、唇の端で自嘲気味に笑う。
この行為が愛情によるものだったなら、どんな気分だったんだろうと、ふと思った。
だけど今は目的が違いすぎる。

固く閉ざした瞼の向こうの、マジックの表情はどんなものだったろう。
あの冷たく青い瞳は、自分を見ているだろうか。

「────…ッツ!!」
体重をかけられ、歯を食い縛る。無理に開かれる身体に激痛が走った。
質量のある楔に貫かれる衝撃は、脳を焼き尽くすようだった。弟の件などでの意地がなければ、この時点で泣き喚いて哀願していたかもしれない。
「……っく、ぅ……」
不規則な動きで内部を少しずつ深く抉られる度に、堪えきれず呻きが零れる。
それでも、やめてくれとは言わなかった。
ただ、あまりの苦痛に涙が溢れ出すのだけは、どうしても止められない。生理的なそれすら弱みを見せるようで嫌で、眉根が強張るほど強く瞳を閉ざして横を向いていた。
揺さ振る動きと齎される苦痛に翻弄され、意識が霞み始める。
気を失った方が楽だな、そんな風にぼんやり思い、黒い靄に意識を委ねようとした時。
「………?」
マジックの手が、頬に触れてきた。ちょうど、瞼の下。濡れているそこを拭うかのように。
下肢に穿たれる凶器とは裏腹に、その手の動きは優しく、頬を緩やかに撫でている。
視線すら向けるものかと思っていたのに、その感触のせいで、先程の疑問が再び心に湧き上がって耐えられなくなってしまう。
どんな目で、どんな表情で。マジックは自分を見ているのだろうか。
耐え切れず目を開けた丁度その時は、頬にあった相手の手が額に移動しようとする瞬間で、視界はその掌に覆われていた。
広い掌の、大きな手。
指の隙間から、マジックの顔が少しだけ見えた。
少し眉根を寄せているその表情は、どこか苦しそうに感じた。

冷酷無比に振る舞い、全てを思い通りにしようとするのも。
優しい笑顔で、大切に自分を慈しんで育ててくれたのも。
どちらも同じ、マジックという人間だ。
額を優しく撫でる、固く大きな手。この手で、幾人もの人間を葬ってきたのだろう。
だけど自分にとっては、安らぎの象徴だった。
幼い頃はその手に自分の手を握られると、嬉しくて。安心出来て。ただ幸せだった。

そんな事を思い出しつつ、再び目を閉じた。マジックの掌は、汗ばんだ額を優しく撫で続けている。
その感触が、心地良いと思った。

体内を穿つ動きが早くなる。馴染んてきたのか苦痛は弱まってはいたが、完全に消えたわけではない。相手の肩に爪を立て、顎を仰け反らせ耐える。
頭を動かしたせいか、額を撫でていた手が外れた。それを少し淋しく感じていたが、すぐに手はまた俺の身体に触れてきた。首筋を撫で、胸から腹へ、そして下肢へと。
触れられた部分が熱を帯びる。
「あ……」
絶対に声は上げないと己に誓っていたのに。辿り降りてきたマジックの指が、中心に絡まった瞬間、小さく喘ぎが零れた。


支配するなら、その牙で噛み殺す程に傷つけてくれればいいのに。
どうして行動と裏腹に、その手だけは優しさを見せるのだろう。
指先に撫でられ、掌で緩やかに扱かれるそこから、甘い熱が生まれ出す。
その熱に、心が解かされそうで。形振り構わず、目の前の男に縋りついてしまいそうで。
それだけが怖かった。




それから、沢山の出来事があった。
この一件後のマジックの心理の変化は判らないが、彼はそれ以来俺の身体に触れはしなかった。それどころか、顔を合わせることすらほとんど無くなった。
俺の方も、それまではコタローの件で毎日のように怒鳴り込んでいたのに、それが出来なくなったから。
どうしていいのか判らなかった。あの手が再び触れてきたら、いつか支配されてしまう気がして怖かったのだ。
全てをかなぐり捨てて、その手を求めてしまいそうな弱さが、自分の中に確かにある事を自覚してしまっていた。
でもそんな感情を認めたくない自分もいて、葛藤し、自棄のように遠い戦地の前線へと赴き、マジックから離れようと努めた。結局団にいる限りは、彼の掌の中には違いなかったが。
お互い何も言わない。顔も合わせない。時折会っても、大切なことは何も言えない。
そうしていつしか、全てが停滞してしまっていた。
何も言えないせいで、煮詰まって、行き場を無くしてしまった感情が悲鳴を上げる。

このままでは駄目だ。
弟の為にも、俺の為にも────マジックの為にも。
現状を打開しなければいけないと思った。

密かに調べ続けていたコタローの居場所が判明したのは、そんな時だった。
弟を救う為に秘石を持って団を脱出し、それにより停滞していた俺達の関係に、大きな変化が訪れる。
逃げた先で俺の運命も、思いがけない方向へと流れ始めた。
慕情も愛着も、引け目も憎しみも、感情の全ては父か弟など、血の繋がった相手に向けられていた自分。他人に対しての愛着はどこか薄かったと思うのに、流れ着いた島で大事な親友が出来た。哀しい別れも経験した。
今はもう無い南国の小さな島と、そこで出来た小さな親友のおかげで、どれだけ精神的に成長出来ただろう。追い詰められていた心が癒されただろう。
狭かった世界が広がってゆく。

そんな世界の中で。マジックとの関係にも、激動が訪れた。
血の繋がりが無いと知り、それでも自分達の間には、確かに培われた絆がある事を再確認して。いつしか蟠りは消え和解していた。
やがて、青と赤の一族を巻き込んで、最後の戦いへと事態は流れてゆく。
まだ幼少の身で、長い間苦しんでいた弟に対して、何も出来なかった。最後に彼に真正面から向かったのは、父であるマジックだった。
俺は、その僅かな手助けしか出来なかったと思う。それを悔やんで、全てが終わった後に言葉にしたら、マジックは笑って言っていた。
「シンちゃんが皆を助けてくれただろう。コタローも、私もね」
その時の穏やかな笑顔がどれだけ嬉しかったか、言葉には出来ない。




「子供の頃みたいに手を繋いで寝てみない?」

眠くて途切れかけていた意識に、低く甘い声が染み込んできた。
聞き慣れたマジックの声。艶気を込めるのは絶対わざとだ。
情事の最中のような、…先程まで嫌という程、耳に囁かれていた声音で。
もう少し体力が残っていたら、再び身体の芯に火が点いていたかもしれない。


あれから、ガンマ団に戻って総帥の座を継いだ。暗殺稼業が染み付いている団を生まれ変わらせるのは、並大抵の苦労じゃない。忙しくも、それでも日々充実していた。
深い眠りに落ちている弟が目覚めたら、胸を張って紹介出来る場にしようと思う。
総帥の地位を俺に譲り渡したマジックはといえば、楽隠居でもするかと思ったのに、あちこちで公演を行ったりと結構忙しそうだ。
会える日が、そう多いわけじゃない。
そんな中、久々に顔を合わせて。会えないでいた時間を埋め合わせるように触れられて。

こんな風に身体を繋ぐようになったのも、あの島から帰ってからだった。
和解し凍てついていた心が解かされてしまえば、元々反発しつつもその手を求めていた感情には、枷が無くなってしまった。
前とは比べ物にならない程に優しく触れられて。
泣きたくなるくらいに、そのぬくもりに飢えていたのだと。幼い頃のように、その手を求めていたのだと。嫌が応にも、心は認めざるを得なかった。


手を繋いで……。
子供の頃のように…?
半分意識の無い頭で、今の言葉を反芻する。
事後の気怠いまどろみの中では、こちらが反抗する事も出来ないのも、相手は承知の上だろう。
「………ん…」
案の定、まともな返事も出来やしない。
寝具に投げ出された手に、マジックの手が触れてくる。
軽く握られ、反射的に握り返す。
大きくなった自分の手よりも、更に大きな手。無意識に、頬を摺り寄せていた。



子供の頃は、自分の手を包み込んでくれる、この大きな手が好きだった。
そして今も、変わらずに。
一度離してしまったそれは、再びこうしてこの手に与えられた。
その、力強く優しいぬくもりを、もう二度と手放す事の無いように。

それだけを願って、深く心地良い眠りへと落ちた。


「BLUE SEASON」という同人誌の
過去に当たる内容のつもりだったり。
それ見てなくても平気なように書いたつもりですが、
これだけだと何か暗くてすみません…||||
パパ側の心理も無いしなあ…;
本の方では、見事にバカップルになります…。

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